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【歴代】 内閣総理大臣の功績 日本はこうやって創られた ~戦前・戦中編~

昭和戦前・戦中の歴代内閣総理大臣の功績をまとめました

更新日: 2018年05月17日

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KatesHeroさん

1926年(大正15年)12月25日、迪宮裕仁親王が父・大正天皇崩御を受け、第124代天皇となり、昭和と改元

昭和モダンから数々のクーデター、そして第二次世界大戦へ

経済や政治においては悪い兆しが存在し、1929年に発生した世界恐慌により不景気およびその後の貿易摩擦、議会政治の腐敗および軍部のクーデター未遂( 海軍による五・一五事件、陸軍による二・二六事件 )などが発生、さらには海外領域のいざこざ( 1931年の満州事変や、その後の支那事変など )などもあり軍部の力が増し、徐々に暗い影を落としていくことになる。

田中義一(第26代)

陸軍大将,政治家。長州藩士出身。日清・日露戦争に従軍。山県有朋に認められて軍政家としての手腕を発揮,帝国在郷軍人会の創立などに尽力。1918年原敬内閣の陸相としてシベリア出兵を強行,1925年立憲政友会総裁となる。1927年北伐に対する幣原外交を排難し,同年組閣,金融恐慌の処理,社会主義運動の弾圧と同時に強硬外交を推進。張作霖爆殺事件の責任を負って1929年辞職。

・支払猶予令(モラトリアム)を施行し、金融恐慌の鎮静に努めた
・山東出兵,済南事件を起こした
・東方会議を開催し対中国政策の基本綱領を決定
・三・一五事件,四・一六事件で共産党その他を徹底的に弾圧
・治安維持法を改悪し特高制度を確立した

濱口雄幸(第27代)

官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相である。濱口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、まさに激動の時代だった。この激動を乗り切って首相に上り詰めたのは、濱口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して彼を押し上げていった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。

・金解禁、緊縮政策、産業合理化を断行
・協調外交(幣原外交)
・ロンドン海軍軍縮調印
・条約重要産業統制法など独占資本本位の重化学工業化,産業合理化を図った
・産業合理化など十大政綱発表
・重要産業統制法など独占資本本位の重化学工業化,産業合理化を図った

犬養毅(第29代)

内閣が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第1党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた上、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持つことを評価して、昭和天皇に野党・政友会総裁の犬養を推薦したのである。この時、犬養は数え年で77歳。新聞は白髪を黒く染めて戦った源平合戦の老武将・斎藤実盛になぞらえ「昭和の実盛」と書いた。

・前内閣のデフレ政策を撤回
・金輸出を再禁止して金本位制度を離脱
・対華積極政策を推進したが上海事変の発生
・満州事変の拡大,満州国建設

五・一五事件

夕方5時半ごろ、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が、ピストルをふりかざして乱入してきた。襲撃犯の一人である三上卓は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。だが偶然にも弾が入っておらず不発、その様子を見た犬養は両手を上げて、有名な文句「話せば分かる」を口にして将校たちを応接室に案内した。

応接間に着くと「靴ぐらい脱いだらどうだ」と述べ、彼らに煙草を勧めたが、三上は「何か言い残すことはないか」と返した。その言葉を聞いた犬養は何かを言おうとしたが、興奮状態にあった山岸宏が「問答無用、撃て」と叫び、別働隊であった黒岩勇が応接間に突入して犬養を銃撃した。同時に三上も発砲して弾丸は頭部に命中した。襲撃者たちは犬養に重傷を負わせるとすぐに去って行った。

女中たちが駆けつけると、犬養は顔面に被弾し鼻から血を流しながらも意識ははっきりしており、縋り付く女中を制して「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と述べたという。

10時ごろ大量の吐血をしたが、驚く周囲に「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と逆に励ますほど元気だった。見舞いに来た家人に「九発撃って三発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか」と嘆いたという。しかしその後は次第に衰弱し、午後11時26分に絶命した。享年78、「昭和の実盛」の壮烈な死だった。

高橋是清(内閣総理大臣臨時代理)

五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。

斎藤実(第30代)

内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす重臣ブロックとして中堅、青年将校から目の敵にされ、二・二六事件において斎藤は殺害された。

2月26日未明に坂井直中尉等に率いられた150名の兵士が重機、小銃、などを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。

・日満議定書を調印
・中国軍と日本軍との間の停戦協定である塘沽協定締結
・国際連盟脱退
・インフレと農業恐慌の中で自力更生を奨励
・米価対策、負債整理対策、時局匡救事業などを実施

昭和9年1月、時事新報(武藤山治社長)が、繊維会社の帝人と財界人グループ「番町会」や鳩山一郎とのあいだの贈収賄疑惑を報じたことから帝人事件の調査が開始され、帝人社長、帝人の株式を担保していた台湾銀行の頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら16人が起訴された。

その後、帝人事件の担当裁判官の石田和外らは4月、被告ら全員に無罪判決を言い渡した。しかしこのことで政権批判の世論が収まることはなく、齊藤内閣は7月8日、内閣総辞職した。

岡田啓介(第31代)

田中義一内閣で海軍大臣をつとめたのち、斎藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で総理官邸を青年将校に襲撃されたが奇跡的に難を逃れた。

総理退任後も重臣として度々枢機に預かったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。晩年に口述した『岡田啓介回顧録』はこの動乱の時代を知る上での貴重な史料となっている。

・第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退
・天皇機関説問題
・華北侵略再開など軍部の圧力が増大

広田弘毅(第32代)

外交官,政治家。東京大学を卒業し,1906年に外務省に入った。 26~30年駐オランダ公使,30~32年駐ソ大使。 33~36年斎藤実,岡田啓介両内閣の外相として,穏和な対外政策を唱えながら,軍部の強硬方針を抑えられなかった。 36~37年首相。日独防共協定を締結。 37~38年第1次近衛文麿内閣の外相。 45年6月には和平工作のため駐日ソビエト大使 Y. A.マリクと会談したが,不成功に終った。第2次世界大戦後,極東国際軍事裁判によって,A級戦犯として絞首刑を言い渡され,文官でただ1人処刑された。

「石屋の倅から総理大臣へ」としばしば言われるように、立身出世の典型として誉高かった。

・「庶政一新」を唱えたが、その内実は軍事力の拡大を図ることであった。
・軍部大臣現役武官制を復活
・帝国国防方針の改定による膨大な陸海軍拡張計画を認める
・陸軍の要求する大陸進出と海軍の要求する南方進出をともに承認する「国策の基準」を決定した
・「第二次北支処理要綱」「対支実行策」では華北分離政策推進を決定した
・綏遠事件、西安事件によって対中国政策は破綻
・日独防共協定を締結
・大増税と赤字公債増発を計画した

林銑十郎(第33代)

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