あの秘話も…伝説の日本代表たちが明かした「日韓W杯」

今から16年前に開催された、日韓W杯。グループリーグ日本vsロシア戦の視聴率はなんと66.1%を記録するなど、日本中がサッカーフィーバーに沸きました。数年前になってから、当時を懐かしむ選手のコメントが出ており、今回はその逸話をまとめてみました。

更新日: 2018年06月19日

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「もう一歩、もう二歩できたと思う」

決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れ、W杯から日本代表が姿を消したわずか2日後に、中田英寿の口から出た言葉。それは、「不完全燃焼」

「グループリーグ突破を決めた時点で、選手たちの多くは任務を果たしたような感覚になっていた。あそこで満足してしまったのは志が足りなかった」と分析

トルシエ監督が率いた当時のチームについて「完成度はかなり高かった」と話し、「日本がW杯で戦っていくための基礎をトルシエが作った」と指揮官の手腕を評価している

「落ちるのは当然だった」

97年に桐光学園高校から横浜マリノス(当時)に加入。00年には、22歳の若さでJリーグ最優秀選手賞を受賞した実力者

(しかし)トルシエ監督が発表した日韓W杯に臨む日本代表メンバーの中に、中村俊輔の名前はなかった

「監督からしたら、W杯は短期間の大会だから、秋田さんやゴンさん(※)のように豊富な経験があって、リーダーシップを備えた選手を呼んでチームを盛り上げたいだろうし、今考えればその決断はよく分かります」と話す

※中山雅史選手の愛称。

「(横浜F・)マリノスでキャプテンを務めさせてもらったから、チームをまとめる難しさも分かる。それを考えると、日韓W杯の代表メンバーで自分が落ちるのは当然だったと思う」

「フェイスガードは黒で塗りました」

「(実は)サインペンで塗りました。ちょっと黄色がかかったような白だったんですけど、弱々しく見えるので『黒く塗った方がいいんじゃないか』と言われて」

ピッチに入るとなった時、空気が本当に重く感じて、自分のポジションに行くまでが“重たかった”のを覚えています。やっぱり、試合に出るとなった時はものすごく緊張した

日本でサッカーというスポーツが一大ムーブメントになり、「これだけ人を熱狂させるのか」という部分は感じました。自分がメディアを通じて知られるようになったり、生活がガラッと変わりました

「もう一度代表を率いて引退したい」

自宅に甲冑や日本刀、仏像など、日本の物であふれ、当時の写真を大切に保管している同氏は、「あのときを思い出すとうれしくなる」と話す

「ポテンシャルを買ってメンバーに選ぶこともあり得た。ただ、彼は(足首)を故障していた。W杯直前に3週間のスペイン合宿に彼を連れて行ったが、一度もみんなと同じ練習メニューができなかった」

「コンディションが100%整っていれば選んでいた」と、状態が万全ではなかったと説明。

「日本に戻ることが夢だ。彼らがオリンピックチームのために私のことを考えてくれているといいね。そうすれば素晴らしいキャリアの最後になる」

(最後にトルシエ氏は現代表に、)「選手全員に役目があることを気づかせることが大切。それが国の代表チームをつくるということ」だと、愛する日本代表に激励の言葉を送っている

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