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【U2のアルバム③】War

BonoReedさん

・発売日:1983年2月28日
・レーベル:アイランド
・プロデューサー:スティーブ・リリーホワイト
・チャート:IRE16位、UK1位、US12位

解説

U2がステップアップするきっかけとなったサードアルバム。今度こそリリーホワイトにプロデュースを断れられたU2は新しいプロデューサー探しに奔走。1981年11月22日~24日にアメリカ人プロデューサー・サンディ・パールマンと一緒にロングアイランドのキングダム・サウンドで酒ロカビリー調の曲を一曲レコーディングした。けれどもバンドはその結果に満足できず、リリーホワイトに再登板を願って、1982年2月A CelebrationとTrash Trampoline, and the Party Girlをレコーディングした(A Celebrationはパールマンと一緒に作った曲という説もある)。

けれどもリリーホワイトはアルバムのプロデュースは頑なに拒否。そこでバンドは同年3月Blondieとの仕事で有名なジミー・デストリとレコーディングを行い、Be There(未発表曲)をレコーディングした。ちなみにこの際Endless DeepとThe Unforgettable Fireの原曲もこの時できたものである。が、バンドはこれにも満足できず、その後レット・デイビーズや当時ロックバンドとの仕事に興味を失っていたブライアン・イーノにもプロデュースを打診した。

その後、後にリバーダンス・ブームの仕掛け人として有名になるビル・ウィーランと二曲をレコーディング。そのうち一曲がWarに収録されたThe Refugeeである。その後、ボノはアリと結婚してジャマイカにハネムーンに行ったが、その間もボノは作詞に精を出し(一方、アイルランドに残っていたエッジはSunday Bloody Sundayを仕上げていた)、アイルランドに戻ると、リリーホワイトを三顧の礼をもってプロデューサーに迎え、ウインダムレーン・スタジオでレコーディングに入った。レコーディング中ボノは「ジ・エッジみたいに弾くな!The Clashのミック・ジョーンズみたいに弾け!」とエッジをさかんにけしかけていたのだという。

そして完成したのが初期U2の集大成と言われ、Sunday Bloody SundayとNew Year's Dayという代表曲を二曲含むWarだった。内省的・宗教的だった過去二作と違って、アルバムのタイトルどおり曲のテーマも北アイルランド紛争、ポーランドの民主化運動、アイルランド人難民問題など多岐に渡り、後のポリティカルバンドとしてのU2の側面が露わになっている。ボノはこのアルバムを評して「政治的なアルバムではなく情熱的なアルバム」と述べているのが、これは恐らく政治的な怒りを個人的な怒りに昇華させたという趣旨で述べているのだろう。レコーディング中のスタジオを訪れたThe Boomtown Ratsのボブ・ゲルドフは「ポップミュージックの時代にこんな時代錯誤のアルバムをリリースするのは自殺行為だ」ということの趣旨を述べ、U2のメンバーも「当時としては恐ろしくダサいアルバム」という自覚はあったのだが、果たして本作はそのポップミュージックに飽きたらない硬派のロックファンに大受けして、U2は階段を一歩上ることができた。

ジャケット

デザインはスティーブ・アルビニ。

モデルの少年はBoyのときと同じピーター・ローウェンである。ローウェンはTwo Hearts Beat as OneのPVにも出演し、New Year’s Day、Sunday Bloody Sunday、Two Hearts Beat as Oneのシングルのジャケットにも起用されている。

収録曲

1. Sunday Bloody Sunday

アイルランドに二つある血の日曜日事件をテーマにした曲。意外なことであるが、U2が北アイルランド紛争について直接的に歌った曲はSunday Bloody Sunday、Please、Staring at the SunのB面に収録されているNorth and South of the River、Peace on Earth、The Troublesの五曲しかない。

Warのレコーディングを中断してボノとアリがジャマイカに新婚旅行へ行っている間、エッジが一人で大半を書いた曲で、恋人との痴話喧嘩とおのれの作曲能力のなさのせいでむしゃくしゃした気持ちを思いきり曲作りにぶつけたのだという。ただ2004年にボノの”失われたブリーフケース”が見つかった際、その中にあったノートに既にSunday Bloody Sundayのタイトルが書き込まれていたということから、以前から曲のアイデアはバンド内にあったようだ。

この頃、ボノはジョン・レノンにどっぷり嵌っていて、そのハンドブックをいつの胸ポケットに入れて持ち歩いていたそうで、恐らくジョンの同テーマ、同タイトルの曲に触発されたのだろう。

当初、エッジが書いた冒頭の歌詞は「IRAやUDAの権利について話すのは止めてくれ」だったが、あまりに直接的すぎることから現在のものに改められた。ウェールズ人で空気を読まない理系秀才のエッジだからこそ書け、アイルランド出身のU2だからこそ歌える曲とも言え、今なおライブでは欠かせないU2の代表作となった(が、意外なことにヨーロッパと日本でしかシングルカットされていない)。

ボノが考えたのは血の日曜日事件とカソリックとプロテスタント双方の一大行事であるイースター・サンデー(復活祭)という二つの日曜日を対比させることだった。2010年6月18日にニューヨーク・タイムズに寄せた記事で、ボノは次のように述べている。

「(この曲は)小さなことについて歌って大きな理想について触れようとしたけどうまくいかなかった曲だ」「自分のような髪の毛をして怒りを持ったロック・ファンがいればサラエヴォだろうとテヘランだろうと、どこへ行ってもきっとこの歌は歌われるはずだ」「実際、どんな地域でも解決はすぐに見出すことはできるはずだ。このアイルランドの歴史の一コマからなにか学べる教訓があるとしたら……たとえば、バグダッドやカンダハルにとってなにかあるとしたら、それはこういうことになる。ものごととは悪い方向へとはたちまちにして変わっていくし、いい状況へと変わっていくにはとても時間がかかってしまうけれども、でも、しっかりいい方向へと変わっていくことはできるということだ」

またラリーはリリーホワイトからクラックトラック(メトロノーム)を使うよう勧められていて、渋っていたのだが、尊敬するSly & the Family Stoneのドラマー・アンディ・ニューマークから、「クラックトラックなしでドラムを叩いたことがない」と教えられ、自分も使うことにした。「SBS」をひとつにまとめているのはラリーのドラムといわれているが、「あれは郵便局のマーチングバンドにいた経験が生きた」とラリー自身も述べている。

僕たちは政治的な人間ではないし、政治とも関係がない。君が北アイルランドについて話したように、SBSを聴くと、人々は「ああ、イギリス軍に十三人のカソリック教徒が銃殺されたあの事件だね」って言うんだけれど、この歌はその事件についてのものじゃないんだ。あれは小いわば北アイルランドで最も有名な小さな出来事で、それだけで「どれぐらい? どれくらい僕たちはこの問題に耐えなければならないのか?」と言うのは大袈裟だよ。カソリックだろうがプロテスタントだろうがなんだろうが、僕は誰が誰かなんてこと気にしない。日々、辛苦と憎悪に塗れて人々が死んでいるけれど、その事実にたいして僕たちは「なぜだ?そこにどんな意味があるんだ?」と問いかけているんだ。だからこの歌はエルサルバドルや他の似たような場所にも当てはまる――人々が日々死んでいるね。政治のことは忘れよう、お互いに撃ち合うのは止めて、話し合いの椅子につこう……「政治はクソだ」という物言いに加担するバンドはたくさんいる。が、それがどうだって言うんだい? 本当の戦いは人々が死んでいることだ。それこそが真の戦いなんだよ(ラリー・ミューレン)

またエレクトリック・ヴァイオリンで、後にIn Tua NuaやThe Waterboysに参加するスティーブ・ウイッカムが参加している。バス停にいたエッジに「君たちのレコードにヴァイオリンは要らないか?」と尋ね、電話番号のメモを渡し、採用された。

スタジオはエネルギーに満ちていた。集団的熱狂以上のものだ。バンドがライブ演奏するように準備されていて、僕はコントロールルームでそれに合わせて演奏した。SBSのテイクを録り終えた後、皆、幸せそうで、恐らく、バス停で声をかけてきた見知らぬ人間が実際に演奏できたものだから、ほっと胸を撫で下ろしているようだった。僕は雇われて、エッジが「Take My Hand(Drowning Manの原曲)」というもう一つの曲を演奏し、そのラフミックスが入ったテープを貰った僕は、次の週までに曲に入れるヴァイオリンの音を考えた。それから僕とエッジとリリーホワイトで、ヴァイオリンの音を重ねて、ストリングセクションのように一つのヴァイオリンの音にしたんだ。このとき、僕は実に多くのことを学んだよ(スティーブ・ウイッカム)

1982年12月20日、初めてベルファストでSunday Bloody Sundayを演奏した際]、ナーバスになったボノは「もしも気に入らなければ、二度とベルファストでは演奏しない」と断ってから演奏したのだが、終わると観客席は興奮の坩堝となった(ただし、ベルファストではThe Joshua Treeツアーの1987年6月24日の公演以来、Sunday Bloody Sundayは演奏されていない)。その後、ボノはSunday Bloody Sundayを演奏する度に「これは反逆の歌ではない」と断りを入れるようになり、Warツアーでは白旗を振って「ノー・モア!」と観客を煽るパフォーマンスを行った。1985年のライブエイドでもU2はSunday Bloody Sundayを演奏した。

The Unforgettable FireツアーでもThe Joshua TreeツアーでもSunday Bloody Sundayはライブの中核をなしたが、映画「U2/魂の叫び」には、1987年11月8日、IRAが仕掛けた爆弾により11人が死亡し、60人以上が負傷する大惨事となったエニスキレン爆破事件に怒る、同日デンバーで行われた公演におけるボノの熱いパフォーマンスが収録されている。

少し話をさせてほしい。アイルランド系アメリカ人がよく俺に、故郷の「革命」がどうのこうのという話をふってくる。自分自身は20年も30年もその故郷には帰っていないのに、「レジスタンス」の話をする。「革命のために命を捨てるという栄光」とか――「革命」ね、クソくらえだ。「革命のために人を殺すという栄光」を語ってみろって。寝ている人をたたき起こして、妻子の目の前で撃ち殺す、それのどこに「栄光」がある? 戦没者追悼の式典で、昔もらった勲章を取り出して磨いて集まってきたようなお年寄りを爆弾で攻撃することの、そのどこに「栄光」がある? 何が「栄光」だって? 人々を死なせて、あるいはこの先ずっと身体が不自由になるかもしれない、あるいは死体になって瓦礫の下に――「革命」の瓦礫の下に、アイルランドでは大多数が望んでもいない「革命」の瓦礫だ。もうたくさんだ!(ボノ)

シネイド・オコナーのGospel Oak というEPに収録されているThis is a Rebel Songという曲がSBSに対するアンサーソングになっている。ボノが「これは反抗の歌ではない」と前置きしてからSBSを歌いだすのに対し、シネイドは「これは反抗の歌です」と断って、とても優しく穏やかに「「愛しているわ、頑固なイギリス人さん/あなたの激怒は、まるで私の子宮をえぐる拳みたい/私がやったと思い込んでいることを、あなたは許してくれないのかしら/私を愛して。私はあなたの女なのです……」と歌い上げるのだ。

2. Seconds

エッジが初めてリードボーカルを取った曲。”It takes a second to say goodbye”という歌詞の一節を捻りだしたのもエッジである。

1982年に起きた世界的な反核運動にインスパイアされた曲で、スタジオの待合室で休憩中のボノがテレビで見たSoldier Girlsという1982年制作のドキュメンタリー映画をサンプリングしている。

dancing to the atomic bombという歌詞の一節は同じアイランド・レコードに所属するTroublefunkというグループのDrop The Bombという曲からの引用である。

3. New Year's Day

・発売日:1983年1月1日
・レーベル:アイランド
・プロデューサー:スティーブ・リリーホワイト
・チャート:IRE2位 UK10位 US53位

WARからのリードシングルで、U2のシングルとして初めてUKチャートのトップ10に入った。Smashing Pumpkinsのビリー・コーガンは16歳の時にラジオから流れてきたこの曲を聴いて、U2のファンになったと話している。

Octoberツアー中のサウンドチェックの際にアダムがVisageのFade To Grayのベースラインを弾き間違えたことから生まれた曲で、元々はボノからアリへ向けたラブソングだったのだが、その後方針転換し、後にポーランドの大統領となるレフ・ヴァウェンサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」をテーマとする曲となった。ボノはなかなか歌詞を完成させることができず、危うくアルバムから漏れるところだった(ちなみに歌詞にあるUnder a blood red skyの一節は、その後、ライブアルバムのタイトルになった)。レコーディング中、リリーホワイトはSunday Bloody Sundayには特別なものを感じていたものの、この曲にはピンと来ていなかったのだが、スタジオに出入りしていたインターンの少年が、この曲が流れる度に興奮しているのを見て、「もしや」と思ったのだという。

監督:メイアート・エイヴィス  ロケ地:サーレン(スウェーデン)

ロケ地はスウェーデンのスキーリゾート地・サーレン。寒風吹きすさぶ雪原に立ち尽くして歌い、馬に乗って森の中を行くバンドの姿が印象的なこのPVはMTVでヘビロテされ、現在でも人気の高いU2のPVの一つである。だが、4人が馬に乗るシーンはメンバーが上手く馬を乗りこなせず、また保険にも入っていなかったため、実際に乗っているのは地元の十代の女の子たちである。また雪原で歌うPVというアイデア自体もエコバニのThe CutterのPVの盗用と噂され、U2を毛嫌いしていたイアン・マッカロクは激高していた。

U2は初来日した際、夜のヒットスタジオに出演してこの曲を演奏したが、エッジのギターの音が出ないというハプニングに見舞われた。

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