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この記事は私がまとめました

鉄道ジャーナリスト加藤好啓です、本日も国鉄があった時代から、終戦後から昭和27年頃までを国鉄の視点で書いてみたいと思います。なお、今回も国鉄があった時代に資料をメインに書かせていただきました。

blackcat_katさん

米軍の占領政策は、日本の復興が目的ではなかった。

占領軍の日本に対する政策は、経済の復元を限度としており、積極的に復興を支援するというものではありませんでした。
 あくまでも、昭和の初め頃程度まで復興することを念頭においたものであり、過度の経済力が一点に集中しないようにすることが主たる目的とされたため、財閥解体や農地解放(これは戦前からも運動としてはあった)等が行われたことは周知のとおりです。
 GHQは、インフレーションを抑制し経済を安定化させるため、ドッジ公使を迎え、収支均衡を保つ超縮小均衡予算を打ち出し、インフレは収束に向かっていきましたが、消費の抑制と産業資金供給の縮小は、体力の弱い中小企業を直撃し、安定恐慌から失業者の増加による社会不安が増大されました。
これにより失業者は昭和25年6月には43万人にもなりました。
このときは、国鉄でも新車の導入などが大幅に抑制されたのは周知のとおりです。

80系電車 も新製を抑制されることになった

かし当時、連合国軍の占領下で日本の鉄道政策を掌握した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) 第3鉄道輸送司令部 (MRS) は、アメリカ合衆国のインターアーバン(都市間電車)ではすでに衰退が始まっていた事例から、100kmを超える長距離区間の長大編成電車列車による高頻度運行には懐疑的であった。また設備投資抑制が図られていたこともあり、本計画が必要とする新製車両の定数充足を認めようとしなかった。
国鉄は、上述した障害の中で製造許可を得るために、東海道線電車についても「横須賀線程度の短距離運転」という名目でひとまず計画をスタートさせ、後から距離を延長して所期の目的を達成するという策略[注釈 5]を用い、ようやく本計画に係る予算を承認させた。

国鉄80系電車 Wikipedia から引用

風向きが変わってきた、占領政策 最低限の復興から防共の防波堤に

また、当初は日本の軍事産業を含む軍関係は全てを撤去する予定であったのが、次第にその様相が変化してきました。それは朝鮮戦争に代表される米ソの関係の悪化です。
中国は、昭和24年10月蒋介石率いる国民党軍が毛沢東率いる紅軍に敗れ、社会主義国が誕生します、アメリカとしては、日本にその地理的条件などから戦略的価値を見出したのかもしれません。さらには昭和25年6月25日に突如勃発した朝鮮戦争は日本の進むべき方向を完全に180度転換させることとなりました。
これにともない、GHQの政策は大きな変化を遂げていきます。
 すなわち、経済復興を大幅に認めアメリカの防波堤にすべき構想に変化したのです。具体的には、軍需施設関係工場の保存と重工業の復興を認めたことでした。

全面講和か片面講話で、労働組合内でも意見が分かれることに

また言論・集会の自由も抑圧されていきます。
 さらには、昭和25年7月、日本政府に警察予備隊の創設を指令するとともに、国内の政治労働運動に際しても共産党を中心に弾圧を行うなど共産党に対する態度も硬化させていきます。
 共産党幹部の一部が公職追放され、「アカハタ」や「前衛」が発行禁止処分され、さらには共産党系の組合の集合体であった、全労連への解散命令が出されました。
マスコミ関係などでもレッドパージのあらしは吹き荒れていました、そして世間では講和の機運も高まっていったのですが、全ての国と講和条約を結ぶ、全面講和と、ソ連など講和に反対する国を後回しにする、片面講和で、国内世論が二つに分かれてしまいました。
これは国鉄内部でも同じで、国労内で「全面講和派」と「片面講和」で分裂の危機を生むこととなりました。
なお、この点はまた後ほど詳しくお話したいと思います。

参考

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