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日本国有鉄道史 講和条約と国鉄 第2話 朝鮮戦争の勃発前夜

国鉄の歴史にあって、占領軍は特別の存在でした。今回は、九州方面に向けて走っていた、1005列車(元 Allied Limited)のお話を中心に書かせていただきました。

更新日: 2018年09月16日

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鉄道ジャーナリスト加藤好啓です、本日も国鉄があった時代から、朝鮮戦争前後の国鉄についてお話をしたいと思います。GHQによる進駐軍専用列車は、講和条約以後は、特殊列車という名称で時刻表に掲載され、日本人の利用も可能となりました。

blackcat_katさん

朝鮮戦争と講和条約

朝鮮戦争は、アメリカとソ連の代理戦争というか、資本主義VS社会主義(マルクスレーニン主義)の戦いとして、朝鮮半島を舞台に繰り広げられたことは皆さん良くご存知のこととは思います。
先にも記しましたように、この戦争は日本の戦後を大きく軌道修正させるものとなりました。
終戦当初のGHQの方針は、日本には軍備を一切認めないで、また経済復興もそこそこにという程度にしておくという方針でありました。
しかし、朝鮮戦争勃発後は、日本を防共の砦としての役割をを持たせることにその方針を大きく変更せざるを得なくなりました。
(既に中国は革命が成功し、大陸は社会主義国家が成立していました。)、それが警察予備隊の創設であり、共産党の再度非合法組織としての弾圧などという形であらわれたのです。
また、朝鮮戦争は国内において、朝鮮特需を発生させ、国内は活況を呈していきました。
日本国内は、朝鮮戦争のアメリカ軍の前線基地としての役割を持つこととなり、物資の補給と輸送、兵器類の修理などが日本で行われることとなり、空前の朝鮮特需を受けるとともに、共産党の弾圧が実施されました。

日本社会党が提唱した、講和三原則

そんな中、 昭和26年1月、社会党(現・社民党)は大会を開き、左右両派の大論戦の後「講和三原則」を採択しました。
 「講和三原則」・・「全面講和」・「中立堅持」・「軍事基地反対」の方針でした。そして、それを受ける形で総評は同年3月の第2回大会で、「再軍備反対」を合わせた平和4原則を採択、政府が再軍備を進める中で、次第に左傾化していく総評の姿がありました。
朝鮮戦争は、先にも記しましたように日本の世論を二分することとなり、あたかもこのためだけに革命が起こりかねない雰囲気であったことも事実でした。
講和条約自体は、全面講和の声を無視して、昭和26年9月にサンフランシスコで対日講和会議が開催され、部分講和の条件のもと、講和条約と、日米安全保障条約が結ばれました。
このときの会議には、中国は招かれず、ソ連、インドは調印しませんでした。
講和条約は、11月18日、日本の国会で批准され、昭和27年4月28日は批准書も交換されて発効、これにより日本は7年ぶりに自主独立を果たすこととなります。

民間運輸局(CTS)の廃止や、進駐軍特別列車の特殊列車化

これに先立ち、悪評高かった民間運輸局(CTS)の廃止、進駐軍特別列車等の特殊列車化(条件付ではあるが日本人の乗車も可能)などがおこなわれましたが、まだまだ日本人が自由に旅行できるといった雰囲気ではありませんでした。
なお、国内に目を向けてみると、経済の復興を最優先に(これは日本の望んだ道でもあり、アメリカも期待していた方向)した講和条約ですが、社会党(現・社民党)の中では、部分講和に賛成するものと、あくまで全面講和にこだわるもの。これにより社会党の中には社会党左派と社会党右派(これは後に分裂し、社会党右派は、旧民社党を結成します。)とに分裂する事態となりました。

昭和28年東海道・山陽線の時刻表から、特殊列車の名称が読み取れます。元 Allied Limited」(1005・1006列車)他にも1001列車/1002列車もありました。

1946年(昭和21年)1月31日:東海道本線・山陽本線の東京 - 門司間で、「Allied Limited」(1005・1006列車)の運転が開始された。下りは東京を夜に出発し、関西圏を翌朝通り、そして門司にはまた夜に到着するダイヤで、一部車両は門司駅から普通列車に併結されて佐世保駅まで足を伸ばした。なお上り列車は門司を朝に出発するが、佐世保発の車両は門司駅に深夜に到着してそこで一泊し、翌朝の列車に併結していた。

連合軍専用列車
連合軍専用列車(れんごうぐんせんようれっしゃ)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)において日本が1945年(昭和20年)8月に降伏した後、1954年(昭和29年)ごろまで日本各地の国鉄・私鉄で運行されていた、日本へ進駐してきた連合国軍(進駐軍・連合国の占領軍)の国内移動の便宜を図るための専用列車の総称。

昭和29年の改正で、特殊列車の表記は消滅

列車名には、「早鞆」という愛称が付けられ、ぱっと見た感じでは一般の九州向け長距離列車に見えますが、列車番号は1005列車で進駐軍専用列車の名残であることを物語っています。
1001列車/1002列車は、急行西海の愛称を貰っています。
1954年(昭和29年)10月1日:「特殊列車」は完全に日本人が乗る普通の急行列車に転換され、1005・1006列車には「早鞆」とそれぞれ命名されました。

特殊列車は、その生い立ちから、講和条約発効後愛称が付けられて、一般急行化した後も、列車番号だけは専用列車の列車番号が与えられて区別されていましたが、昭和31年の改正で、西海は列車番号も、一般急行列車と同じ二桁の33列車/34列車に変更され、早鞆は、1015・1016列車の列車番号に変更の上、運転区間を短縮、東京~大阪間の運転となり、愛称も「彗星」が与えられました。
これは、この改正で「特急あさかぜ」【20系では無い】が運転開始されたことに伴う措置だと思われます。

早鞆は、列車番号を変更の上運転区間を短縮、東京~大阪間の「彗星」と改名します、列車番号1000番台に、特殊列車の名残を感じさせてくれます。

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