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人類史上初めて世界制覇を成し遂げた神の子アレクサンドロス大王

人類史最大の英雄アレクサンドロス大王の逸話、影響、後継者などを「劇団Camelot」プレゼンスでまとめました。

更新日: 2018年10月13日

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この記事は私がまとめました

古代ギリシア世界の小国マケドニアから人類史上初めて世界を制した大英雄アレクサンドス大王を「劇団Camelot」プレゼンスでまとめました。

来栖崇良さん

アルゲアス朝マケドニアの王ピリッポス2世と母オリュンピアスの子として、後に後世の人類が畏敬の念を込めてアレクサンドロス大王と呼ぶアレクサンドロス3世が生まれる。


少年時代のアレクサンドロス3世は同世代の仲間達と共にアリストテレスから、ギリシア世界の偉大さとギリシア人としての誇りを叩きこまれた。



「カイロネイアの戦い」に勝利したピリッポス2世はギリシア世界の覇権を握るが、護衛を務めていたパウサニアスに暗殺されるが、ピリッポス2世の死の混乱に乗じて反乱を起こしたテーバイを、20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロス3世が制圧し、マケドニアは再びギリシア世界の覇権を握る。

「グラニコス川の戦い」と「イッソスの戦い」

ギリシア世界の覇権を握ったアレクサンドロス3世は、当時世界最強最先端のペルシアを目指す。

ペルシアに侵入したマケドニア軍38000が、ペルシア連合軍40000とアナトリア地方(現 トルコ領内)で対峙した「グラニコス川の戦い」で、アレクサンドロス3世は人目をひく派手な装飾の鎧をまとい、先頭になって突撃すると敵将ミトリダテスを自らの投げ槍で仕留めた。

続く「イッソスの戦い」では、アケメネス朝ペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが12万の大軍で、4万足らずのマケドニア軍を迎え討ったが、アレクサンドロス3世は大胆で斬新な戦術と強いカリスマ性を発揮し、圧勝する。

ガウガメラの戦い

マケドニア軍の脅威を体感したダレイオス3世は、諸説あるが15万ともいわれる(100万を超えるという伝承もあるが、それは現実的ではなく、むしろそれだけ総力を挙げたという解釈が妥当である)大軍を準備した。


この「ガウガメラの戦い」でもマケドニア軍は圧倒的な戦力差を統率のとれた戦術で跳ね返して勝利すると、総力を駆使して大敗したペルシア帝国は滅びゆくことになっていく。

ヒュダスペス河畔の戦い

ペルシア帝国を滅ぼしてインダス川を渡ったアレクサンドロス3世はインドに侵攻し、マケドニア軍約40000はヒュダスペス川(現 ジェーラム川)にて、現代のパンジャーブ地方一帯の領主パウラヴァ族の首長であったポロス率いる約34000と衝突した「ヒュダスペス河畔の戦い」は、両軍合わせて2万人ほどの戦死者をうむ厳しい戦闘となった。


マケドニア軍は戦いに勝利するも、その損害は大きく、また兵士達が望郷の念を強めたことで、アレクサンドロス大王は悲願であった世界の果てオケアノスへの到達を断念して、バビロンへの帰路に着くこととなる。

軍事的に勝利しつつも、文明の高さにおいてペルシアに敬意を抱いていたアレクサンドロス3世は、ペルシアをギリシア世界の色で支配するのではなく、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになっていた。


そして、その一環として、スーサに帰還すると、マケドニアの兵士と現地ペルシア人女性との合同結婚式を行う。



この時、アレクサンドロス3世は、宿敵ダイレイオス3世の娘スタテイラ2世を二人目の妃に迎えた。

大王の最後

スーサでの合同結婚式から間もなく、マケドニア軍のインド侵攻後は別働隊を任され、本隊から先行して砦を制圧するなどの活躍をしたアレクサンドロス3世の唯一無二の親友ヘファイスティオンが病死した。


ヘファイスティオンを失ったアレクサンドロス3世の悲しみは深く、自殺を試みて3日間食事も摂らず、これを機にその行動は精彩さと冷静さを欠いたものが増えていく。



紀元前323年6月10日

アレクサンドロス3世は、バビロンからアラビア遠征を計画していたが、10日間高熱にうなされた末(マラリアだったという説が有力)、死去した。

大王の後継者争い(ディアドコイ戦争)

昏睡状態のアレクサンドロス大王が王の証である印綬の指輪を託したのは、数々の戦いで軍勢を二手に分ける時にその片方の指揮を任された戦場におけるNO.2ペルディッカスであった。


帝国の実質的なトップの座に就いたペルディッカスは、アレクサンドロス大王の妹と結婚するためにアンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄し、両者の対立が深まる。



こうした対立構造の最中、ペルディッカスはバビロンからマケドニア本国へ移送中だったアレクサンドロス大王の遺体をプトレマイオスに奪われた。

ペルディッカスは急ぎプトレマイオス討伐にエジプトに向かうが、その途上でセレウコスらの部下に暗殺される。

ペルディッカスの死を受けて有力諸将は会議の末、アレクサンドロス大王の東方遠征の際に留守のマケドニアを任されていたアンティパトロスを帝国摂政としてトップに立てた。


アンティパトロスが老齢にして帝国トップの座に着くと、アンティゴノスはNO.2格の全軍総司令官となり、ペルディッカスの暗殺に関わったセレウコスはバビロン太守に出世する。



後継者争いはここでしばしの落ち着きをみせるが、すでに老齢だったアンティパトロスが遺言で後継者にポリュペルコンを指名して死去すると、アンティパトロスの息子カッサンドロスはそれに納得せず、再び後継者争いは激化した。

アレクサンドロス大王の東方遠征において、アンティゴノスは「グラニコス川の戦い」以降、本隊には従軍せずアナトリア地方で後方活動ながらもアレクサンドロス帝国の版図を広げていた。


紀元前316年「ガビエネの戦い」に勝利して、ポリュペルコンに味方するエウメネスを捕えたアンティゴノスは、アナトリア半島全土およびシリアからイラン高原に至る広大な地域を手中する。


その勢力が有力諸将の中でも頭一つ抜けた存在になり、アレクサンドロス帝国全体を再統一を目指したアンティゴノスは、紀元前306年、マケドニアにアンティゴノス朝を開いて王位に就く。

セレウコスはアンティゴノスに対抗すべく、アレクサンドロス大王終焉の地を拠点に王位に就くことで後継者としての意味合い出そうと、バビロンでセレウコス朝を開いて王位に就いた。



また、セレウコスは他の後継者候補と反アンティゴノス同盟を結び、さらに背後の安定を考えてインドに遠征し、ウマリヤ朝のチャンドラグプタ王から500頭もの象を譲り受ける。


この像の大群が、アレクサンドロス大王の後継者争いで最大となった「イプソスの戦い」で威力を発揮し、アンティゴノスに勝利したセレウコスは入れ替わるように最大勢力となっていき、ここまでずっと共闘関係にあったプトレマイオスと対立するようになった。

セレウコスが、後継者として故国マケドニアへの勢力拡大を目指すと、肥沃なエジプトの地を背景に後継者としての野心を隠さなかったプトレマイオスの息子ケラウノスに暗殺される。

こうして、世界を制したアレクサンドロス大王の後継者候補達はプトレマイオス以外全て滅びた。


アレクサンドロス大王の死後、誰よりも後継者としての野心を隠さなかったプトレマイオスは、セレウコスの死により悲願である帝国再統一の可能性が現実味を帯びると、逆にここが引き際と悟り、本拠地エジプト繁栄の礎を築くようになる。

以後、プトレマイオス朝エジプトは、あの絶世の美女クレオパトラ7世に至るまで約300年その系譜が継がれていく。

大王の遺産プトレマイオス朝の最期

クレオパトラ7世は弟プトレマイオス13世とエジプトでの権力争いを有利に運ぶべく、超大国ローマのNO.1ユリウス・カエサルを魅了して愛人となる。


クレオパトラ7世はエジプト女王に返り咲くと、カエサルの子カエサリオンを産んだ。

紀元前44年、カエサルが暗殺されると、クレオパトラ7世はカエサルの後継者にカエサリオンを望んでいたが、カエサルが遺言書で後継者に指名いていたのは大甥で養子のオクタヴィアヌスであった。


その後、クレオパトラ7世は「アクティウムの海戦」でオクタヴィアヌスに敗れると自殺し、カエサルの後継者として担がれる可能性のあるカエサリオンは殺害される。

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