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日本国有鉄道史 講和条約と国鉄 第3話 講和発効に向けて動く政府と組合運動

講和条約発効に向けて、政府は労働運動にも大きく制限をかけていくようになりました。これに対して、総評はこうした政府の運動に反対する動きを見せることとなりました。これは、初めての政治ストであり、これを機に総評を中心とした政治ストが頻発に行われることとなりました。

更新日: 2018年09月20日

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鉄道ジャーナリスト加藤好啓です、今回は講和条約前後の政府と総評を中心とした組合の動きなどを中心にお話をさせていただこうと思います。特に、この時期に始まった政治ストは、総評系特に、官公労を中心に拡大していくこととなりました。

blackcat_katさん

講和条約発効に向けて、新たな治安体制の確立と組合の反発

講和条約発効に向けて、政府は労働法規の改定や新しい治安体制を確立すべく行動に出ました。
 特に破壊活動防止法等は、その際たるものでありました。→ 公安審査委員会設置法 公安調査庁設置法 などの制定でした。
総評では、これら政府の動きに対抗すべく労働法規改悪反対闘争委員会(労闘、以下略す)が組織され、昭和27年には活発な活動が行われ、4月12日には、第一波の労闘が組織されました。
 これは最初の政治ストであり、従来の本来の労働運動としてのストとはその意味合いを異ならせるものでありました。
 その後公務員等のストには、こういったストライキが増えていきますので注目しておいてください。
4月18日にも同様の第2派のストライキが実施されました。
 その後5月にはメーデーに参加した労働者と警官隊が衝突した血のメーデー事件が起こっています。
その後政治的運動は影をひそめていき、炭労(炭鉱労働者)や、私鉄などから職場闘争が展開されて本来の労働運動の形が整えられていきました。

公安審査委員会設置法
法律第二百四十二号(昭二七・七・二一)

(設置)

第一条 破壊活動防止法(昭和二十七年法律第二百四十号)の規定により公共の安全の確保に寄与するために行う破壊的団体の規制に関する審査及び決定の事務をつかさどらせるため、法務府の外局として、公安審査委員会(以下「委員会」という。)を設置する。

条文は。上記、出典をクリックしてください。

破壊活動防止法
法律第二百四十号(昭二七・七・二一)

   第一章 総則

 (この法律の目的)
第一条 この法律は、団体の活動として暴力主義的破壊活動を行つた団体に対する必要な規制措置を定めるとともに、暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補整し、もつて、公共の安全の確保に寄与することを目的とする。
 (この法律の解釈適用)
第二条 この法律は、国民の基本的人権に重大な関係を有するものであるから、公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用すべきであつて、いやしくもこれを拡張して解釈するようなことがあつてはならない。

条文は。上記、出典をクリックしてください。

公安調査庁設置法
法律第二百四十一号(昭二七・七・二一)
 (この法律の目的)
第一条 この法律は、公安調査庁の所掌事務の範囲及び権限を明確に定めるとともに、その所掌する行政事務を能率的に遂行するに足りる組織を定めることを目的とする。
 (設置)
第二条 法務府の外局として、公安調査庁を設置する。
 (任務)
第三条 公安調査庁は、公共の安全の確保に寄与することを目的とし、破壊活動防止法(昭和二十七年法律第二百四十号)の規定による破壊的団体の規制に関する調査及び処分の請求等に関する国の行政事務を一体的に遂行する責任を負う行政機関とする。

条文は。上記、出典をクリックしてください。

第2次世界大戦後の三大騒乱事件の一つ。対日講和条約が発効して最初のメーデーが行われた 1952年5月1日午後,明治神宮外苑で開かれた東京の中央会場からの中部コースデモ隊は日比谷公園で解散せず,学生,朝鮮人,自由労務者約 6000人は「人民広場へ行こう」と叫んで皇居前の警戒線を突破,5000人の警官隊と衝突した。この衝突で警察官の重傷 68人,軽傷 672人,デモ隊側の負傷者は 200人,死者2人,奪われたピストル3丁,焼失した米軍車両 14台,損壊した車両 101台に達した。この事件には騒擾罪が適用され 1219人が逮捕,うち 261人が起訴された。

参考 血のメーデー事件 wikipedia

概要
デモ隊によって転覆させられた自動車
暴徒と警察官

GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。

警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人(駐留米国軍人)の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ

ウィキペディアから引用

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