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【歴史】《9月の出来事集》〜関ヶ原の戦い〜

天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」をまとめました。

更新日: 2018年09月20日

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この記事は私がまとめました

今回は9月15日にあった天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いをまとめました。

馬場和彦さん

目次

1,関ヶ原の戦いの概要
2,戦いに至るまでの経緯
・豊臣政権内の対立
・秀吉死後の政治抗争
3,戦いの経過
4,西軍・東軍その後

◆関ヶ原の戦いの概要

豊臣秀吉の死後発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が関ヶ原での戦いを含め各地で戦闘を繰り広げた。

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。

この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになる

関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある

◆戦いに至るまでの背景

豊臣政権内の対立

慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立がある。この対立関係は豊臣政権において主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされる。

豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げた。福島正則とともに豊臣氏配下の最有力の武将の一人で、石田三成とは豊臣政権下で文治派、武断派が形成されるにつれて関係が悪化していった。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍した。
藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。

秀吉死後の政治抗争

豊臣秀吉の死後、その子供である豊臣秀頼(ひでより)がまだ幼かったため、石田三成を中心にした「五奉行」と徳川家康を中心にした「五大老」という二つのグループによって政治が行われるようになる。

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。
家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は後に幕藩体制と称され264年間続く江戸時代を画した。
死後は日光東照宮に祀られ薬師如来を本地とする東照大権現として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」とも呼ばれて信仰される。また、江戸幕府の祖として「神祖」、「烈祖」などとも称された。

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が伏見城で死去すると、それ以降政権内部での対立が表面化していくことになる。まず秀吉の死の直後、徳川家康と伊達政宗ら諸大名が、秀吉の遺言に違反する私的婚姻を計画していたことが発覚し大老前田利家や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こる。 一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。

黒田官兵衛の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。

翌年の閏3月に前田利家が死去すると、五奉行の一人石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長の七将に襲撃される。
家康・毛利輝元・上杉景勝・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。

豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

家康の政治的影響力が強まる中、五大老の一人・上杉景勝は家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出す。この景勝の動向は、近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって家康に報告されていた。

家康は神指城築城や津川への架橋を豊臣政権への「別心」=反逆であるとして詰問し、景勝に6月上旬の上洛を要求する。一方家康は会津との交渉結果が出ていない5月3日の段階ですでに会津征伐を決定していた。

上杉謙信の後継者として上杉家の当主となった。
豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。

会津に出征して畿内を留守にした間、7月2日に宇喜多秀家が出陣式を行い、7月17日に三成が大谷吉継や毛利輝元らを糾合して挙兵する。家康はその時はまだ江戸城にいた。三成らの挙兵を知った家康は直ちに会津征伐を中止、小山評定を開いて今後の対応を協議する。そして景勝に対しては結城秀康の軍勢を抑えとして残し、家康は反転西上して三成らの討伐に向かった。

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。

◆戦いの経過

家康が赤坂に着陣すると大垣城の石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の各隊は山中まで引き、翌朝には垂井の南にある岡が鼻山に毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・安国寺恵瓊・長束正家ら計2万が弓鉄砲を前衛に陣を構える。家康はこの方面に池田輝政・浅野幸長を送り込み、自らは旗本衆を率いて野上と関ヶ原の間に陣を張った。 15日朝は霧と降雨によって視界不良であったが、午前10時ごろには晴天となり視界も開け、物見の部隊が戦闘を開始する。

東軍は先陣の福島正則隊が道筋(中山道)を西へ、その南側を藤堂高虎・京極高知隊が進み、中筋(北国街道)からは織田有楽斎・古田重然・猪子一時・船越景直・佐久間安政の各隊が参戦し激戦となる。

正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。関ヶ原の戦い後、正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た

戦いの半ば小早川秀秋・脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠が寝返り、そこへ松平忠吉隊が乱入し、忠吉は数ヶ所の傷を負いながら組み討ちで功名を挙げた。井伊直政隊も松平隊に随伴して参戦し、直政も負傷しながら力戦。吉継は馬上で切腹し、島左近父子・平塚・戸田は討ち死。 西軍は中筋を通って突入してきた本多忠勝隊の攻勢に堪えきれず、追い討ちによる多数の死者を出しながら玉藤川(藤川)を下って伊吹方面に敗走を始め、南宮山の西軍各隊も敗走。

豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)10月18日、21歳で急死した。

1600年9月15日 の昼、開戦から約半日。様々な出来事があった日本最大の合戦「関ヶ原の戦い」は、約6時間ほどで決着となった。

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