1. まとめトップ

【のび太】作者がモデルの作品 【清太】

作者がモデルの漫画や小説をまとめてみました

更新日: 2018年09月26日

1 お気に入り 1509 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

ちびまる子ちゃんのモデルが作者の小学生時代であることは知られていますが、結構作者がモデルの作品は多いような気がしてまとめてみました。

ちびまる子ちゃん

本作品は、1974年から1975年にかけて静岡県清水市(現:静岡県静岡市清水区)の入江地区で少女時代を過ごした作者のさくらももこの投影である小学3年生の「ちびまる子ちゃん」が、家族や友達と共に繰り広げる日常生活を描いたコメディ漫画。

実際の「まる子」は絵の好きな大人しい子供だったようだ

漫画家の『さくらももこ』は小学三、四、五、六年生、中学二、三年生と同じクラスだった。アニメのようなかわいい顔ではなく、梅干しを食べたおばあちゃんの顔。髪は三つ編みのときが多く視力の低下により、たまに赤縁メガネを掛けていた。授業中にはノートへ絵をよく書いていたが、ちびまるこのような絵ではなく、目の輝く少女の絵だった。
性格は似ているが、アニメのようなクラスの中心人物ではなく、おとなしいタイプだった。

同級生だったはまじのモデルが語るさくらももこの印象

火垂るの墓

『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説で、野坂自身の戦争体験を題材とした作品である。兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語。

野坂昭如も神戸市で過ごし、鉄棒が得意だった

火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。

見てみ、兄ちゃん上手いで は本当だった

優しくできなかった後悔が妹思いの清太を作り上げた

一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。

ドラえもん

勉強は駄目、スポーツも駄目、何をやらせても冴えない少年。物語は彼の不幸な将来を変えるために、未来の子孫であるセワシからドラえもんが送られたことから始まる。以降、困りごとがあったり、トラブルに巻き込まれるとドラえもんに泣きつき、ひみつ道具に頼ろうとする。それに応じて出したひみつ道具を応用することに関しては、時折天才的なひらめきを見せるが、調子に乗って結果的に失敗することの方が多い。

のび太は僕なんです

のび太のモデルは原作者の藤子・F・不二雄さんです。

生前、NHK教育で藤子F先生の講演の模様を放送した時にも「のび太は僕なんです」、「劣等感の塊だった」と述べられています。

少年時代はいじめられっ子だったようだ

しかし本人によると、大人しくて真面目で体が弱かった藤本は小学校時代に壮絶ないじめに遭い、番長格の少年から似顔絵を評価されるまでずっと抜け出せず、その時の気持ちが作品に反映されているという。

のび太の特技が射撃なのは・・

西部劇やガンマンにも関心が強く、それに関した話も少なくない。ドラえもんののび太には射撃の才能があるエピソードが多く描かれており、またドラミとタッグを組んだ後期の話(単行本24巻「ガンファイターのび太」)や『T・Pぼん』やSF短編集(『休日のガンマン』)などで本格的なスタイルのガンマンたちを描いている。藤子不二雄Ⓐ・鈴木伸一・つのだじろうと共に8mmカメラで西部劇を撮影したこともある。

童謡 どんぐりころころ

どんぐりころころの歌詞

1 2