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日本国有鉄道史 輸送力増強と国鉄 第1話 輸送力増強

今回から、輸送力増強と国鉄というタイトルで、昭和25年頃のお話をさせていただこうと思います。写真は、国鉄線から引用しました、特急はと運転の記録です。

更新日: 2018年10月12日

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この記事は私がまとめました

鉄道ジャーナリスト加藤好啓です、今回から、戦後における国鉄輸送のお話をさせていただこうと思います。なお、随時資料灯を追記していくこともございます。

blackcat_katさん

「特急 へいわ」運転開始

昭和24年9月、戦後初めての「特急 へいわ」が運転を開始しました。
 戦後の暗い世相の中でたとえ一般庶民には高嶺の花であった特急列車が復活するということは国民に希望を与えるものでした。
 特に、「へいわ」という愛称は、戦後の国民には素直に受入れられる名称では有りましたが、愛称については、改めて公募が行なわれることとなりました。
全国から約16万通の応募があり、その中から1,500余通を占めた「つばめ」が選ばれました。これにより、昭和25年1月1日をもって「へいわ」は「つばめ」に改称されました。
余談ですが、初代「へいわ」に使われたテールマークと「はと」のデザインは全く同じ物が使われています。さらに、同年5月11日には姉妹特急として「はと」が運転を開始しました。

出典i2.wp.com

愛称別トレインマーク事典 。日本海ファクトリー様から借用しました。

特急つばめに改称、更なるサービスもアップ

なお、特急つばめですが、昭和25年5月からは、特別2等車(現在のグリーン車)が連結されました。
これは、GHQの民間輸送局(CTS)といって、国鉄の基本的な政策などを勧告と指示を与えるポスト)のシャグノン大佐という人の強い要望(強制?)によると言われています。
このとき作られた特別2等車がスロ60と言われる形式で定員は44人と現在の標準的な車両よりもゆったりとした設計になっていました。この車両は主に外国人専用として使われたようです。

出典i2.wp.com

愛称別トレインマーク事典  日本海ファクトリー様から画像を引用させていただきました。

スロ60形
1950年度に、鋼体化改造により大井工場と大宮工場にて計30両が製作された特別二等車。日本の二等車として、初めて自在腰掛 (リクライニングシート)[52]が採用され、特別二等車の初形式となった。室内は、列車の進行方向に合わせて回転できる2人掛けのリクライニングシートが22脚設置(定員44名)され、客室窓は1,000mm幅の広窓になっている。便所は洋式のものが前後に1箇所ずつ設置され、水タンクも増量(床下に700リットルのものを2個設置)された

wikipediaから引用、余談ですが、高砂工場の職員さんから聞いた話ですが、スロ60を解体せずに工場の片隅で保管していたらしいのですが、正式な保存では無くいわば隠すような感じであったので、高砂工場廃止の際、草むして朽ち果てたスロ60が発見されたそうです。さすがに、そこまで廃墟になっているとどうしようも無くて、泣く泣く解体したとか。

日本人向けには、スロ50、スロ51を製造

その後、当時の日本人向けにシートの間隔を狭めたスロ50(定員48人)、スロ51(定員52人)の3形式が登場しました。
従来の向かい合わせ式の2等車は並2等(並ロ)、リクライニング装備の2等車は特二等(特ロ)と呼ばれて区別され、特別2等車には特別料金が設けられました。
これらの車両は現在のグリーン車の基礎を築いたという点では注目すべきものであり、すこぶる評判の悪かったCTSにおいて唯一評価できるものといわれています。

スロ51形
急行用として製造されたリクライニングシート付き特別2等車(特ロ、後の1等車→グリーン車)で、1950年に近畿車輌、帝国車輌、新潟鉄工所、日本車輌、東急車輌、川崎車輌、日立製作所で60両が製造された。基本設計は 1,100mmピッチのリクライニングシート付きのスロ50形と共通であるが、後の冷房化を考慮していなかったため、配電盤のスペースを省略し 専務車掌室と荷物保管室を若干狭くして定員を52名としている

国鉄は、1等車で使用したかったらしい。

なお、国鉄当局は当初は1等車扱いにしたかったようですが、許可が下りず止む無く特別2等車という名称にしたわけで、結果的に2等車の全体的なかさ上げが出来たと言われています。

併せてご覧ください。

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