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国鉄があった時代、日本国有鉄道史 復旧から発展 第1話 当時の世相概略

この章では、戦後は終わったと言われる昭和30年代を中心に、国鉄最後の黄金期と言われた時代を描いていきたいと思います。

更新日: 2018年10月09日

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鉄道ジャーナリスト加藤好啓です、国鉄があった時代、日本国有鉄道史の解説ページとしてまとめております。今回は3回に分けてアップする予定にしております。

blackcat_katさん

はじめに

この章では、戦後は終わったと言われる昭和30年代を中心に、国鉄最後の黄金期と言われた時代を描いていきたいと思います。
少し長くなりますが適当に短い章立てをして、読みやすくしたいと思います。 なお、労働問題については、別章で詳しく述べる予定ですので本編では概略を述べるに留めたいと思います。

当時の世相概略

単独講和か全面講和かでもめた講和条約は、アメリカと日本の利害と思惑が一致し、中国(中華人民共和国)及び旧ソ連(現・ロシア)とは講和条約を結ばないまま、昭和27年に講和条約は発効、日本は一応独立国としての体裁を保つこととなりました。
(アメリカとしては、早々と昭和24年頃には撤収したかったのが、朝鮮戦争の勃発で抜けられなくなったと言う経緯があります。)
ただ、日本本土も空襲による被害は甚大で、所々に焼け跡が無残な姿をさらしていたもので、昭和40年代初頭まではその片鱗を伺いうことができたものです。
現在は、コンサートなどで賑わう、大阪城ホール付近も、かつては陸軍工廠が在った所で、昭和40年頃までは、その区画だけが廃墟のようにぽつんと空いていたことを思い出すことが出来ます。

当時の為替レートは1ドル360円固定相場

また、為替レートが1$360円の固定相場に固定されていたため、輸出には有利でしたが、当時は渡航制限も撤廃されておらず、かつ外貨持ち出しも制限されていたため、現在のように誰でもが気軽に海外に遊びに行けるといったことはほとんど不可能でした。
当時壽屋(現・サントリー)が「トリスを飲んでハワイに行こう」というキャッチフレーズで、アンクルトリスのイラストとともに有名になったのも昭和30年代です、50代以上の方には懐かしい思い出ではないでしょうか。

キャンペーンは寿屋によって1961年9月に発表された。1等賞品はハワイ旅行積立預金証書(100名)。このほかに残念賞現金15,000円(400名)、2等トリスウイスタン(缶入りのハイボール)(1,500,000名)があった。当時、海外旅行は自由化されていなかったため、1等賞品はハワイ旅行ではなく積立預金証書となっている。そのため、当選者は当選後に毎月一定金額が旅行資金として積み立てられ、海外旅行自由化実施後にハワイへ行くという手続きが取られた。
キャンペーン期間中の9月11日から12月10日まで、寿屋のトリスウイスキー大瓶に2枚、ポケット瓶に1枚、抽選券が同封されていた。当選番号は翌年1月に発表された。発表後、1等と残念賞は抽選券を寿屋に郵送することで賞品が手に入り、2等は酒売店で引き換えとなった

本キャッチコピーは、柳原良平のイラストと共に広告に使用された。新聞広告は1961年9月11日に掲載され[7]、レイを首にかけたアンクルトリスと、ハワイ各島の地図が描かれている。またテレビCMでも、アロハシャツを着たアンクルトリスが登場する。
1964年4月に海外旅行が自由化され、1等当選者は4月18日夜にハワイへと旅立った。しかし、1等当選者の大半は商品を現金(約40万円)と引き換えることを選択したため、実際にハワイへ行ったのはわずか4人であった。

国鉄では、東海道本線の電化が完成し、電気機関車による運転が開始されました

国鉄に目を向けてみますと、昭和27年以降、本格的に幹線の電化が実施され、昭和27年4月1日に高崎線の大宮~高崎間が完成、昭和28年には東海道線が名古屋まで電化完成、昭和30年7月に米原まで到達し、全線電化が完成したのは、昭和31年11月19日に完成、EF58形電気機関車が青大将塗装と呼ばれる淡いグリーンに塗られて走ったのもこの頃でした。また同じ時期には、現在は廃止されてしまった、「あさかぜ」号が、戦前の常識を破って、大阪通過の特急列車として運転を開始したことです。

「青大将」塗装対象車
37・38・41・44 - 47・49・52・55・57 - 59・63・64・66・68・70・86・89・90・95・99・100・140

政治の世界では、憲法改正論議が

再び、昭和30年代に話を戻してみますと、昭和30年には鳩山首相は、依然憲法改正論議に積極的であり、押し付けられた憲法を改正すべきとの持論を展開しますが、与野党の反対により消滅していきました。

1912年(大正元年)に東京市会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動。1954年(昭和29年)-1956年(昭和31年)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となり、日本とソビエト連邦の国交回復を実現した。また、彼の内閣(鳩山一郎内閣)から、55年体制が始まった。

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