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天ぷら、寿司・・江戸の大火事が生んだ日本の外食産業

江戸時代、第4代将軍徳川家綱のときに起きた明暦の大火(1657年)。その焼け跡の復興時に江戸では外食文化が生まれ寿司や天ぷらなど今私たちが「日本料理」と呼んでいるものが登場してきたそうです。その辺をまとめました。

更新日: 2018年10月15日

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明暦の大火(めいれきのたいか)

焼死者10万人を超えた大惨事。

ローマの大火・明暦の大火・ロンドン大火を世界三大大火と呼ぶ。

明暦3年(1657)正月18日、本郷本妙寺から出火して、翌日にかけて江戸城本丸を含む府内のほぼ六割を焼失、焼死者一〇万人余を出した江戸最大の火事の一。この後、江戸の都市計画が進められた。振袖火事。

関東大震災や東京大空襲なみの大惨事であった。

江戸城の天守閣跡地。財政上の問題からかその後再建されず。

江戸時代最大のみならず、関東大震災や戦時の東京大空襲を
除くと、日本史上最大の火事といわれた明暦の大火。

火事の焼け跡から発生したのが・・・外食産業!

その焦土復旧作業のために諸国から職人が集まり、江戸の町に気軽に飲食ができる煮魚、野菜の煮物などの煮炊きした惣菜類を店頭で売る辻店「煮売り屋」ができた。

それまで江戸には庶民向けの外食産業はなかった。

それまでの江戸にはほとんど大衆向けの食堂つまりごはん屋、食べ物屋というものがなかった。記録でうなぎ屋や蕎麦屋や、ファーストフードの屋台寿司がどっと登場するのは明暦の大火以後である。

はじめての外食店は浅草にできた奈良茶飯の店

少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともある。

引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8C%B6%E9%A3%AF

日本の外食文化は、江戸時代前期(明暦の大火以降)に江戸市中に現れた浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まったと言われている[2]。
これは現在の定食の原形と言えるもので、奈良茶飯に汁と菜をつけて供され、菜には豆腐のあんかけがよく出された[3]。

その後飲食店が江戸で急増

蕎麦を売る店は時代を経るにつれ増え続け、江戸時代後期の1800年代には、江戸に700軒ぐらいの蕎麦店があったとされている。
これは、当時の飲食店で最も多かった居酒屋に次ぐ数字だ。

@tsuku_sakura 江戸八百八町に蕎麦屋は数え切れないくらいあるが、うどん屋は万に一」とあることからも当時の蕎麦屋優勢がうかがえます。 こうして蕎麦は江戸で勢力を拡大していき、江戸時代末期には江戸市中の蕎麦屋は3760店を数えたといいます。これは現在の東京の蕎麦屋店舗数よりも多いです

寿司もこの頃に誕生

握り寿司の寿司屋が誕生したのは、江戸時代の東京です。
誕生した当初は、庶民が気軽に立ち食いできる屋台としてスタートしました。

当時の寿司は今のようにひとくちサイズではなく、おにぎりのような大きさだったため、小腹が空いたときにひとつふたつをおやつのように食べるというスタイルが多かったようです。

何で握り寿司は2貫づつ出てくるのか?江戸時代は今の大きさの2倍。おにぎりサイズだった。食べやすくするため、2貫になった。

天ぷらも庶民の軽食として親しまれた

江戸時代のてんぷらは小麦粉を水で溶かして衣とし、具材としては、江戸末期の百科事典「守貞謾稿」(嘉永六年(1853年))によれば江戸前のあなご、芝海老、こはだ、貝の柱、するめであったという。
これらが串刺しにされて屋台で提供され、ファストフード気分で気軽に食べられていた。

しかし、天ぷらが街角の屋台で食べられるなんて……。 ファーストフード感覚だな、江戸時代の天ぷらって。

うなぎの蒲焼も江戸の庶民料理として大流行。

うなぎ店の番付までが発表されている。現代でいうところの「食べログ」のようなものか。。

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