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この記事は私がまとめました

近年では2000人以上の武将が登場する〔信長の野望〕ですが、登場武将の中にはとんでもない残念パラメータを授けられた武将達がいます。彼らの事跡を振り返り、400年以上の後世の評価は正当なのか?はたまたゲーム開発陣の陰謀なのかをまとめていきます。※最新作の大志と姫武将は除きます

moomin1978さん

一条兼定 (いちじょう かねさだ)1543~1585

まずは全シリーズを通して最下位6作、2位が4作という輝かしい?実績を誇る土佐の公家大名です。

父・房基が自殺したため7歳で家督を継いだ

房基の自殺の原因は不明だそうです。暗殺説も唱えられています。

伊予国の宇都宮豊綱の娘を娶るが、離別して豊後国の大友義鎮の長女を娶り大友氏と結んだ

婚姻外交を駆使し、九州の雄の支援を得ます。ちゃっかり前妻の実家(宇都宮氏)とも協力関係を維持し、北方の伊予に進出を図ります。

大友義鎮に協力して伊予出兵。豊綱を助けて湯築城主の河野通宣と戦うが、安芸の毛利元就が河野軍の援軍として介入してきたことで敗北を喫する

毛利勢の総大将は、知勇兼備の小早川隆景。善戦するも敗北し、土佐一条家の凋落が始まります。

知力、統率共に上位陣の小早川隆景

1569年に起きた八流の戦いで、「土佐の出来人」と言われていた長宗我部元親の侵攻を受けて妹婿の安芸国虎が自害

『土佐の盟主』とも言われていた一条家の弱体化と共に、長宗我部家が勃興。

一条家の領土を侵食し始めます。

1572年、家臣の土居宗珊(そうさん)を殺害

現状を省みず遊び呆ける兼定を見かねて諫言したところ処刑された

長宗我部家との内通が露見したため処断された

の2説があります。

1573年、長宗我部元親と通じた老臣たちにより家督を廃され,翌年豊後大友氏のもとへ追放された

出典平凡社 世界大百科事典 第2版

前年の重臣粛清が家中に波紋を及ぼし、追放劇へと繋がります。

追放先の大友領でキリスト教に感化され、洗礼を受けます。『キリシタン大名』と記される事もありますが、実際は領地を失った後です。

1575年、宗麟および南伊予諸将の援助を得て幡多郡に侵入,四万十川で長宗我部氏と戦い敗走,旧領回復の夢を絶たれる。

出典株式会社平凡社/世界大百科事典 第2版

2倍の兵力を用意され挟み撃ちにあうという敗戦です。

1代で土佐一条氏を滅ぼしたため『土佐物語』など軍記には暗愚な人物として描かれている

性質軽薄にして常に放蕩を好み、人の嘲を顧みず、日夜只酒宴遊興に耽り、男色女色し諂をなし、又は山河に漁猟を事とし、軽業力業異相を専ら

出典土佐物語

形義荒き人にて、家中の侍共、少しの科にも扶持を放し、腹をきらせなどせらる

『信長の野望』内の評伝もこれらの資料を基に書かれています。

しかし、近年ではこんな意見も見られました。

土佐側の文献は兼定が暗君であったために身を亡ぼしたと記しているが、長宗我部側の史料によったものですべてを事実とはなし難い

追放後も、四万十川の戦いに際して伊予・土佐の国人領主の支持を受け、更に長宗我部氏の工作に買収された旧臣に殺されかかるなど、兼定は最後まで旧領回復の強い意思を示し、反対に長宗我部氏はその存在を警戒し続けたことがうかがえる

兼定の墓所は、大きく破損していますが今でも地元の人々によって大切にされているそうです。

肝付兼亮 (きもつきかねすけ) 1558~1634

続いては、一条兼定の後塵を拝するものの、蒼天録以降、安定の2~3位をキープしている九州の戦国大名です

1571年、異母兄・良兼の死去により、亡父の正室「御南」や兄・良兼の正室である「高城」の意向を受け、良兼の次女を正室に迎え家督を継ぐ。

1573年、島津氏方の北郷時久と戦って敗れたうえ、伊地知重興・禰寝重良などが相次いで離反して島津氏に降ったため、これまで互角以上に渡り合った島津氏との立場は一変、天正2年(1574年)、島津氏に従属した。

父の正室、御南の兄はこの方。本来、島津家とは姻戚関係です

しかし、日向国の伊東氏と通じた上、夫婦仲が悪かったことで御南や高城に正室と離縁させられ、日向に追放された。

追放劇パート2。KOEIセンサーに引っかかりました。

とは言え、相手は野望シリーズ随一のチート大名と言われる島津家です。

領主の地位を追われたとはいえ、パラメータ評価はやや厳しい気もしましたが、どうやら低評価には、この二人が影響を与えているようです。

まずは先々代、父に当たる肝付兼続

戦国末期の当主肝付兼続は、肝付家の領国を最大(十数万石)にまで広げ、日向の飫肥城を制圧するなど、ほぼ大隅半島を制するほどの勢力を誇っていました。

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