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多摩の田舎者が武士よりも武士らしく生きた新撰組

サムライが絶滅した幕末に、多摩の田舎者が武士よりも武士らしく生きようと、青春を駆け抜けた新撰組を「劇団Camelot」プレゼンスでまとめました。

更新日: 2018年10月13日

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この記事は私がまとめました

日本史上最大の変革が起きた幕末に、青春を駆け抜けた悲劇の最強集団「新撰組」を「劇団Camelot」プレゼンスでまとめました。

来栖崇良さん

始まりは早過ぎた才人・清河八郎の計略だった

1862年、江戸幕府は清河八郎(庄内藩郷士)の案により、将軍・徳川家茂が京都訪問の際に、その警護をする浪士隊を募集する。

集まった200名余りの浪士達は、将軍の京都訪問に先がけて中山道を進んだ。

この浪士組に、試衛館の近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助の8人も参加していた。

京都に到着後、清河八郎が勤王(天皇に忠義を尽くす)勢力と通じ、浪士組を幕府のためではなく天皇配下の兵力にしようとしていたことが発覚する。

協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。

これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。


その頃、京都守護職を務める会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主・松平容保は、ちょうど京都の治安維持のための浪士を手配しようとしていた。


近藤達は会津藩にその役目を名乗り出て、京都守護職の松平容保(会津藩主)から、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任され、壬生村(現在の京都府京都市中京区)の八木邸や前川邸などを屯所とし、新選組の前身である「壬生浪士組」が結成される。

1863年8月、壬生浪士組は新たな隊名「新選組」を拝命する。

一方で、組織内は試衛館出身者による近藤派と水戸出身者の芹沢派の確執が色濃くなっていく。


近藤と土方は、厳しい隊の規律「局中法度」を利用して、芹沢派の新見錦を切腹に追い込む。

そしてついに、1863年9月、市中で乱暴狼藉を働き新撰組の評判を落とす芹沢鴨を暗殺。

同時に平山五郎も暗殺、平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹となる。


こうして芹沢派は完全に一掃され、新撰組は近藤勇主導の隊となった。

1864年正月15日、14代将軍・徳川家茂が京都に到着

その頃、新選組は不審者の捕縛、拷問や諜報の結果、京都に潜伏する尊攘派が祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて、徳川びいきの中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜(次期将軍)・松平容保(会津藩主)らを暗殺して、孝明天皇を長州へと誘拐するという計画を知る。


新撰組は、近藤隊と土方隊に分かれ捜索を開始、22時頃、近藤隊は池田屋で会合中の尊攘派志士を発見する。


近藤隊は、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で20数名の敵に突入し、尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助という才能豊かな逸材を失い大打撃を受けた。

一方、この頃から戦闘中に気を失った沖田総司の不治の病が表面化する。

この後世に知れる池田屋事件で、御所焼き討ちの計画を未然に防ぎ、今も残る貴重な文化財を焼失から救い、天皇の誘拐などの阻止に成功した新撰組の名は天下に轟く。



池田屋事件での大活躍と禁門の変への参加で、新撰組は朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を受ける。



1867年、新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、近藤は三百俵旗本となって、幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うほどに出世する。

1864年9月に第二次の隊士募集を行い、さらに近藤が江戸へ帰郷した際に才能豊かな伊東甲子太郎らを入隊させた。

伊東はそのインテリさを高く買われ、土方、山南と同格扱いの参謀という役職を与えられる。



その一方で、新撰組の頭脳として存在感を持っていた山南は、インテリ部門に自分よりも重宝される存在が出来たことによって、徐々に隊内での働き場所を失っていった。

日に日に孤独感を募らせていく山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませる。


隊規の局中法度で脱走は死罪と決まっており、近藤と土方は、すぐに沖田を追っ手として差し向けた。

新撰組のインテリ部門を担うようになった伊東であるが、近藤と時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒する。


近藤の予想通り、1867年3月、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成して脱退。
この時、斎藤一がスパイとして御陵衛士に差し向けられた。

1867年11月、近藤は大石鍬次郎らに伊東を暗殺させる。


さらに他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、伊東について行った藤堂平助(藤堂は伊東の道場の弟子だった時期があった)も殺害された。

1867年11月9日、大政奉還

1868年1月3日、王政復古の号令

将軍・徳川慶喜が朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上(大政奉還)する。

これは薩長による倒幕の口実をなくための見事な一手であった。


しかし、岩倉具視らは徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府を樹立(王政復古の号令)させて旧幕府勢力に追い込みをかけた。

平和解決を望まない新政府側の執拗な攻勢に旧幕府は打つ手を失っていく。

1868年(明治元年)1月27日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。

この時、井上源三郎が戦死した。



江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ「甲陽鎮撫隊」と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退する。

この後、苦楽を共にした永倉新八、原田左之助が、意見の違いから隊を離れる。

近藤・土方は隊を再編成し、下総国流山(現在の千葉県流山市)の光明院・流山寺に分宿して、越谷に本陣を置いていた新政府軍の背後を襲う計画を立てるも、逆に武装準備不十分の状態で新政府軍に包囲される。

しかし、この時点では、新政府軍は武装勢力を不信に感じただけで、それが新撰組とは気付いていなかった。


新撰組が京都で取り締まった薩摩や長州の者達が大半を占める新政府軍に、新撰組であることが発覚すれば、隊士達の処遇が厳しいものとなるため近藤は、意を決して、単身、新政府軍に出頭して新撰組ではないとアピールする。


しかし、新撰組の局長・近藤勇であることが発覚し、板橋刑場で斬首された。

土方は島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流し、北へ北へと転戦し、仙台で榎本武揚らと合流すると、蝦夷地(現在の北海道)に渡る。


旧幕府軍が箱館の五稜郭を占領後、土方は、松前城を陥落させ、江差を占領するなどの活躍をした。


その後、五稜郭を本陣に旧幕府は榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」を成立し、土方は大幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねる。

1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始される。


新撰組の島田魁らが守備していた弁天台場が、新政府軍に包囲され孤立すると、土方はわずかな兵を率いて出陣。


箱館一本木関門まで来ると、敗走してくる味方に対して「退く者を斬る!」と一喝し、鬼神のごとく戦うが、銃弾が土方の腹部を貫き落馬する。


側近が駆けつけた時にはもう絶命していたという。
満34歳没。

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