1. まとめトップ
  2. 雑学

土足が普通の西洋人たちは畳の国の日本の「靴脱ぎ文化」をどう受け入れてきたのか?

日本文化と西洋文化の最大の違いが、畳の国か土足の国かということ。日本人が西洋都であった際に、靴脱ぎ文化と土足文化の衝突は必ず起きたはず。一体どうやって西洋人は日本の靴脱ぎ文化に適応していったのか

更新日: 2018年10月14日

8 お気に入り 11979 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

土足文化と靴脱ぎ文化の融合に興味がある人必見!

gudachanさん

江戸時代の「出島」はなんと畳敷きに土足だった!

江戸時代、西洋と縁遠く、鎖国政策をやっていた当時に西洋人の来訪が唯一認められたのが長崎県の出島だった。建物は畳敷きで、同じ空間に交易などで訪れた西洋人は構わず靴のまま入って過ごし、出島で働く日本人たちは履き物を脱いで過ごした

出島(でじま)は、1634年江戸幕府の外人流入防止政策の一環として長崎に築造された人工島。扇型で、面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)。1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、1641年から1859年までオランダ東インド会社(AVOC、アムステルダムに本部のあるVereenigde Oostindische Compagnie)を通して対オランダ貿易が行われた。

外観は、明治の居留地時代ここに建った洋館とはまるで違う。江戸時代の日本建築とも異なる独特の姿だ。商館員は畳敷きの床を土足履きで暮らしたようだ。飾り気ない倉庫風の館からは異文化の衝突さえ感じる。

あぁぁ、椅子に座って優雅に赤ワインを召し上がっていらっしゃるオランダさんですが、靴ー!!はいてますよー!!せっかくの畳が・・・。給仕をしている人は洋服を着ていますが、素足ですねぇ。この方は日本人なのでしょうか?

鎖国崩壊時に発生した畳土足問題

アメリカからペリー提督の黒船襲来ののち、日本にやってきたハリスが日米修好条約を締結し、鎖国体制崩壊の引き金を引いたのは有名な話。実はこのときにも土足問題が発生していた

日米修好条約を締結。 列強に先駆けて、幕府の鎖国政策を崩した。アメリカの外交官。1854年の和親条約に基づき、1856年駐日総領事として着任。下田玉泉寺に日本初の領事館がおかれた。1858年ポーハタン号の艦上で日米修好通商条約の締結に成功し、初代駐日公使となった。これが契機となり、日本はオランダ・ロシア・イギリス・フランスと次々と通商条約を結び、鎖国体制は完全に崩壊した。

江戸城であれば、商人出身のアメリカ公使ハリスが使っていない新しい靴で畳に上がったという話はあります。

1856年下田港に ハリスがやってきた。しかし交渉の準備段階でトラブルが発生した。ハリスが椅子での交渉をもちかけたのだ。それでは畳に座る日本人が視線の高さ的に見下されてしまうため問題となったのだ。

脱亜入欧を推し進めた明治時代には足元の文明開化が進められた

明治時代になり、開国すると日本近代化のお助け役として西洋人が多数来訪。また日本人自身も建築物を和風から洋風に建て替えるなどして西洋・近代化が進んだが、この時畳文化と土足文化の軋轢を防ぐためのアイデアとしてスリッパが開発されるなど、様々な出来事があった。詳細は以下の記事にある

明治維新で近代教育も発生。それまでの学校は藩校・寺子屋。つまりお城やお寺の畳敷の学び舎だったが、机と椅子で学ぶ西洋式の学校校舎に切り替わった際に、それまでの靴を脱ぐ習慣が残ったことが、上履きの誕生の理由と言われている

ほかの国と比べて日本では特に女性の制服姿などでやたらと見かけるローファーやパンプス。これらは本来は毎日長時間履くことに不適だが、近代化で靴文化が普及する一方、着脱の場面が多い日本特有の事情から選ばれたものだ

大日本帝国崩壊後、アメリカ進駐軍は畳に土足で上がった

西洋文化を受け入れて近代化した大日本帝国は、結局その西洋世界を敵に回したがために第二次世界大戦に敗北。進駐軍という「第二の黒船」が襲来したが、アメリカ人が真っ先に行ったのは接収した日本の建築物の畳文化の否定だった

先日 ある本を読んでいて、ふと目が止まった一文がありました。
工業デザイナーの秋岡芳夫さんの著書の一節ですが
戦後すぐのこと、米軍が日本に進駐し、日本住宅を接収占領。そのおり真っ先に彼ら西欧人が
やったことといえば、畳の上に土足であがったことと、建具や柱に、床柱にまでペンキをベタベタ
塗ったこと。

松原交差点に近いSさんの家も、当時としては珍しい洋館建築・水洗便所だったために接収されて将校宿舎になった。そのため畳は全て取り外されて床板が張られ、壁はペンキで、柱や廊下など木目(もくめ)のあるところはニスが塗られた。そのうえ土足であがるなど、まったくアメリカ風の生活が行われていた。

新築の住宅と接収された日本人の個人所有住宅が将校用家族住宅にあてられましたが、GHQの修理工事仕様にはつぎのように書かれています。
 「室内を明るくするように内部天井、壁、木部に明るい仕上げをなすること。この意味において室内各部は監督将校指示に基づき白色または明色を塗装すること」
 戦災被害にあわずに焼け残った豪邸の各部屋は、畳をはがしてみな土足の洋間になり、壁も天井も白いペンキが塗られてしまいました。日本が誇る伝統建築の数寄屋内装、書院座敷、床柱などすべてが、真っ白のペンキ塗りになってしまったのです。

戦後日本で進んだ西洋人の畳文化受容

日本の戦後復興と「2度目の開国」の達成を内外に知らしめたのが前回の東京五輪だったが、柔道無差別級で金メダルを獲得したアントン・ヘーシンク選手の「畳土足制止」の振る舞いは、開催国で敗者の側であったはずの日本でも広く称賛された。まさに平和の祭典としての五輪を象徴するエピソードだ

東京2020オリンピックが間近に迫った東京で前回オリンピクが開催されたのは、1964年のこと。復興のシンボルとして国民の期待を背負っていた東京オリンピックでは、バレーボール、柔道など日本の“お家芸”が正式種目に採用されました。全階級金メダルを至上命題とされた柔道では、最も重要視されていた「無差別級」でオランダ人のヘーシンクが金メダルを獲得する波乱が起きました。

この時、オランダ関係者が歓喜のあまり畳に上がり駆け寄ろうとするのを勝者は厳しい顔で手を前に出して制止しました。この一連の行動は日本の伝統的な武道から発展した講道館柔道の真髄を見事に体現したものだと深く感銘を受けました。彼及び外国人選手にとっては長年の悲願である打倒日本柔道だったと思います。オリンピックという最高の舞台で達成した彼は、観衆や各メディア等を通して誇らしくアピール出来たと思います。しかしそうはしなかった。より慎み深く、感謝をこめて真摯に勝利を受け止めているようでした。

1975年にはイギリスのエリザベス女王が来日。この際に、畳の部屋を歩く場面があり、公の場で初めて靴を脱ぐことになり、世界中で話題になった

以前、エリザベス女王が来日して、京都のお寺で靴を脱ぐかどうかが、日・英外務省間で外交折衝が行われたことがある。靴を脱ぐことはすなわち女王が人前で「裸の一部」をさらすことになり、それは英国の恥となるかも知れなかったからだ。女王が靴を脱ぐのはバスタブとベッドの中だけだそうである。 そのことは、逆に日本の家屋は西洋で言えば、家中がバスタブとベッドルームと言うことだろう。

迎賓館を訪れて畳の上を歩いた際、女王が公式の場で靴を脱いだのは初めてだとイギリスのメディアが伝えました。このあと、京都を巡ったエリザベス女王は、京都御所や龍安寺を訪れたほか、三重県では伊勢神宮などを訪問しました。

現代の畳文化は西洋人にどう受け入れられているのか

1 2