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多様性受け入れる受け入れない問題

隣組では、多様性を出されたら困る、家族でまとまらないといけないときに多様性出されたら困る、多様性に必要なのは人々の意識と制度サイボウズ

更新日: 2019年03月17日

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この記事は私がまとめました

備忘録

fu_fu2527さん

早稲田は個性的!多様性!変わってる人多い!
って言われるけど、私からしたらどの人もそれぞれ十分変わってるところある、けど早稲田まで行かないとその個性を出せない社会にいるからだと思う

移民問題で"多様性なんて良いことばかりじゃない、コストを無視するな"という意見があるが、現実には、国や企業は別に多様性実現のために移民を受け入れたわけではないので、払わねばならないのは"多様性のコスト"ではなく、''安い労働力を利用してきたコスト"ということになる

これ逆もあるな…白人も多様なのに「白人を」好きになる/マイノリティーとして生きていると私たちの文化が魅力的だから違いを認めながら受け入れようとしてくれる人と“違うもの”として疎外しそれでもいい顔しようとする人たちの見分けが難しい。beinspiredglobal.com/Interview-Mich…

最近は「多様性だいじ!」みたいなのが世界的に流行ってますが、多様性というのは、いま流行っているような「絶対に分かり合える!分かり合おう!」ではなくて、「絶対分かり合えない!干渉しないでおこう!」なんですよ。つまり、じぶんがわからないものに対する不快感をみんなで許そうぜ、ってこと。

news.yahoo.co.jp/byline/takeuch… ヘレンケラーは…マジョリティー(「定型発達」といわれる人たち)が作り上げた子育てと教育制度の中でその障害を「多様性」「個性」と捉えて理解されただけでは力を発揮するのは難しかったのではないでしょうか 発達状況の見立てと専門的でパーソナライズされた支援が必要

苦手な人と距離を置いて生きることと、全ての人間を愛して生きることは、決して矛盾しないのではないかと思っています。そうすることによって、結果的に自分も相手も傷つけず、互いにより良い生き方が出来るのではないでしょうか。例え現世では折り合えない人でも、人間としては十分に尊いのです。

このツイートに対して

保健の授業にて 「左利きの人、手を挙げて。」 「AB型の人、手を挙げて。」 いずれも40人中2、3人が挙手する。 次に、 「同性が好きな人、手を挙げて。」 と言うと生徒は失笑する。 「日本に、同性愛者は左利きやAB型と同じ割合でいる。」という話をすると、 笑うのをやめ真剣に聞く。

このアプローチは絶対に辞めたほうがいい。失笑が漏れる中、誰かが手挙げたらどうするつもりなんだろうか。「手を挙げないだろう」という前提で考えているならもはや悪質だ。教師の「マジョリティ啓蒙イデオロギー」のためにマイノリティが「教材」として犠牲になるのは許されることではない。< twitter.com/barbeejill3/st…

周囲の失笑に耐えなければならない子どもを生み出すような授業って、失敗なんですよね。 もちろん個人差ある話ですが、タイミングによってはこれ当事者の生徒が自死します。 https://t.co/1PI07hhvRL

何も生徒にマイノリティの存在を身近に感じさせるために同じクラスの当事者を材料にする必要はないわけで、にもかかわらずその手法が取られるというのは「マジョリティに利するためならマイノリティの犠牲はやむなし」という感覚なわけで、それはつまり思いっきり今ある差別と同じ発想なんじゃないの

マイノリティってのはマジョリティが立派に育つために存在してるわけではねーんだわ。

“「同性が好きな人、手を挙げて。」 と言うと生徒は失笑する。”っていうツイートが現時点で7万以上いいねされていて、その素朴さがしんどい。彼のツイートをそのまま解釈すればその教室には手が挙げられず失笑うに耐える子がいたわけで、同性愛者を異性愛者の教材にすることの良さが私にはわからない。

俺が指摘しているのは『「挙手をさせる」という方法が劣悪であり不必要』ということ。 だから、 「左利きの人~」「AB型の人~」と言って、 40人中2~3人が挙手したのを確認したら、 「実は、いわゆるLGBTの人も、同じぐらいの割合でいると言われています」 というアプローチならまだ良いと思う。 https://t.co/JdTHgNEKMM

現実的に、笑いや卑下の対象となってしまっているのに挙手させるのはもはや侮辱行為だ。 「母子家庭の人、手あげてー」 「生活保護の人、手あげてー」 「在日外国人の人、手あげてー」 って言うの? 想像しただけで背筋が凍る。 マジョリティの自己満足のためにマイノリティを踏み台にするな、と。 https://t.co/JdTHgNEKMM

「左利き」や「AB型」は、現在マイノリティとして比較的ソフトなものだから挙手させやすいとしても、これまで笑いや卑下の対象となってきた現実があるマイノリティについて挙手させるのは侮蔑行為に近い。何の権利があって教師がプライベートかつセンシティブな問題について集団の前で質問できるわけ?

「プライベートかつセンシティブな問題」と言えば例えば宗教だって同じ。 「浄土真宗の人~?」「曹洞宗の人~?」「創価学会の人~?」「幸福の科学の人~?」ってクラスで聞くわけ? 聞かないでしょ。そして答える必要もない。それと同じだと思うね。その辺の感覚がない人は俺には理解ができない。

そして実際にその質問に挙手している生徒がいないとなれば、「挙手できない状況」だということ。「その状況を変えるのが教育」だという人がいるけれど、たかだか1時間やそこらの授業でこれまで醸成されてきた価値観が変わると思ったら大間違い。教師にそんな力はない。うぬぼれるな、と思う。

マイノリティは少なからず周囲の「無理解」を知っているし、「挙手して」と言われて挙手すれば自分が「晒し者」になることも分かっているし、誰も挙手せずに「失笑」されるという現実を再認識してしまったうえに、「やっぱり言わなくて良かった」との思いを強めるだけで、気分が良いのは教師だけ。

「志が高い教員」「意識が高い教員」による「マジョリティ啓蒙イデオロギー」のために、マイノリティが「教材」として消費され、犠牲になるのは決して許されることではない、ということ。この結論は変わらない。

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