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日本国有鉄道史 ローカル線問題と国鉄 第1話 古くて新しい、ローカル線問題

この章では、国鉄解体問題の端緒となったとも言え、現在もその方策について広く論議されるべき対象であるローカル線問題についてお話ししたいと思います。

更新日: 2018年11月17日

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鉄道ジャーナリスト加藤好啓です、今回からローカル線問題について語っていきたいと思います。古くて新しいローカル線問題、その根底はどこにあるのでしょうか?

blackcat_katさん

古くて新しい、ローカル線問題。(特に昭和30年代を中心として)

国鉄の経営は、戦後の復興と進駐軍(連合軍)輸送に追われ、インフレの高騰の中で赤字経営を続けていました。
 昭和20年代の終わり頃もまだまだ、赤字体質からは抜けられず、運賃値上げなどを繰り返していました。
 そんな国鉄に対しては、赤字に対する批判が強くなっていき、当然ローカル線に対する批判も強くなっていきました。

運輸区設置による、線区別経営の試み

独立採算制を建前とする国鉄でもこの問題について取組まざるを得なくなり、昭和29年、千葉県の木原線と久留里線にそれぞれ大原運輸区・木津運輸区を設置して線区別経営を試みました。
具体的には、駅長の廃止、無人駅化、貨物列車の隔日化、気動車による増発など、運輸部門を一括して合理化したもので、ある程度の成果を得ることが出来ました。
 入りを増やすのではなく出を減らすことで収支を改善しようとしたものであり、積極的に入りを増やすというものではありませんでした。

更に深度化した、管理所制度の導入

その後、運輸業務以外に保線・信号などの業務も線区別にまとめ、権限を大幅に委譲した管理所制度が発足させ、この テストケースとして仙石線が選ばれました。
最初のケースに選ばれた理由として、元々が私鉄であったたことなどと言われています。
管理所制度は一応の成果を納め、ローカル線経営のモデルケースと言われました。
 具体的には、所長に線区ごとに権限を委譲し、所長の判断で機動的に動けるようにしたもので、所長の判断で車両の改良や営業運動等も併せて行ったそうです。

司会
そうした狙いのもとに、業務改善はどのような方向でやられたのですか。
市川
仙石線の合理化は、作業方式の変更と管理方式の変更の二つの改善面をもって展開されたのです。前者は貨物の営業範囲を調整し、貨物取扱駅の廃合、直通貨物列車の廃止、及び仙台塩釜間の時刻改正(30分ヘッドから15分ヘッドへ〉、これに伴う塩釜線の旅客列車廃止などの一連の改正を内容として、31年の7月から実施し、後者はそれから二か月後の11月1日の発足となりました。管理所は形の上では駅、電車区、保線区など一切を包含する綜合の現場機関で、これを大き〈特色づけるのは権限を与えて所長の統一意思で線内の経営に当らしめるという点であります。権限は極めて広汎なものであるし、乙れに見合う予算も与えられているのです。
綜合現場と申しましたが、管理所には所長のもとに庶務、経理、運輸、電車、線路及び電気の六人の主任がおります。

この場合、庶務は現場の庶務掛をそのまま集めて出来たもので、車掌区の庶務、電車区の庶務と、こういうのが集まって庶務掛を構成し、経理もやはり現場の経理担当者が一緒になって、即ち保線の経理とか電力の経理とか、そういうものが集まってできたわけで、48名は何れも現場からの吸上で構成されており、そのために増員されたというのはありません。

司会
予算は毎年一定の枠が与えられて、それを自由に所長が使えるというような恰好になっているんですか。
市川
予算は、与えられたというよりは、こちらから要求しただけは頂戴するということになっております。御承知のように、経費には管理所の決算になるものと流入になるものがあるわけですが、管理所決算になるものは、こちらから要求した通りのものを頂戴する、しかもその予算は管理所に関する限り、各項目流用差支えないということになっております。
司会
従来の観念からすれば全〈変った組織が出来上がったわけですが、その創設に当って、いわば縦の系統からのトラブルというようなζとはなかったですか。

出典国鉄線 昭和33年7月号から引用

このように、管理所制度は今までの国鉄にはない、ユニークな手法が取り入れられており、JR発足後のJR西日本見られた、鉄道部により近い物であったと思われます。

その後全国に拡大する管理所制度

実際に、昭和33年からは全国に展開、運輸区は38線区、管理所は30線区まで広がりました。 この管理所制度は、現在の「地域鉄道部」の先駆けのようなものであったと考えていただければ理解しやすいのではないかと思われます。
ただし、仙石線では、増収活動まで取り組んだものの、他の運輸区や管理所では積極的に増収を図れる組織にまで行かなかったようで、ある一定の合理化を達成するとその存在価値自体が無くなってしまい、昭和45年頃までには全部姿を消してしまいました。

建設が中止されたローカル線の復活要望も

他に、戦時中に不要不急路線として線路が撤去された路線についても復活要望が起こり、路線として復活した所もありますが、「白棚線」の場合のように、復活に際して鉄道よりもバスの方が有利であるとして、旧線路敷きを専用自動車道として再整備して国鉄自動車白棚線とした例や、阪本線のように、当初は鉄道として建設されたが途中で採算性に疑問があるとして、路盤を自動車専用道に再整備のうえバス専用路線として(五条~城戸間)運用される例など、既にローカル線の建設に対しては批判が出始めていたのは注目していただきたいと思います。

余談ですが、坂本線も利用者の減少で現在は旧来の坂本線経由のバスは廃止されてしまいました。

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