1. まとめトップ

この記事は私がまとめました

rulliさん

本編開始

サッカー史上最高の選手、ペレの伝説を紹介します。

1940年生まれ。

【所属クラブ】
1956ー1974  サントスFC
1975ー1977  ニューヨーク・コスモス


サントスFC時代、638試合619得点(公式戦)

【ブラジル代表】
1958-1971  92試合77得点(歴代1位)

《この77得点は47年経っても未だに破られていない[2018年現在〕》。


【主なタイトル】
W杯3回優勝(1958、1962、1970)

クラブ世界一2回(1962、63)

ブラジル王者5連覇(1961ー65)【サントスFC】

サンパウロ州リーグ、得点王11回
(17才から9年連続得点王記録も作った)。

ペレと言うと、盛んに「1000ゴール以上得点した」
(親善試合を含めた数字)と、
その並外れた得点能力が話題になるが、
彼はW杯で「最多アシスト」記録を持っている、
彼はれっきとした「パサー」でもあるのだ。
本当に彼は「10番」なのだ。

「得点も、アシストも最上レベル」の天才。
それがペレである。

ペレが引退して、約50年になるが(2019年、現在)、
未だに「W杯アシスト記録」は、破られていない。

ブラジル、アルゼンチンというのは名選手が本当によく出て来る国であるが、未だにクラシコの得点数でペレを超える選手が出て来ない。

それだけペレが大試合にとても強く偉大だという事だ。
ジーコ、ロマーリオ、ロナウド・ナザリオ、
リバウド、ロナウジーニョ、ネイマール、
マラドーナ、ケンペス、バティストゥータ、メッシなど両国に名選手が数多く生まれたが、
結局、誰もペレのクラシコ得点数を抜けなかった。

ペレは16才でブラジル代表デビューして、   「自分がこのレベルでやっていけるとすぐ確信した」
と述べた大天才。

プロ1年目、16才でデビューして、
1年目から得点王になるなんて、
本当にペレは「天才」ですね。
日本人はTBSの『消えた天才』とかいうバカ番組を
見て生きているので、本当の天才を知らない。
だから頭のとてもおかしい民族だと思います。
本当の天才は、プロ1年目で得点王で、
プロ2年目、17才(日本だと高校3年生)、
でW杯を主役で優勝してます。

ペレは、メッシというW杯優勝できない凡才とは、
違いますね。
その後、ペレはプロ・デビュー1年目から
「9年連続、得点王」の記録を作りました。
やっぱり、メッシとは格が大きく違いますね。

写真は、10代の時のペレ。

ペレは16才で初参加したリーグ戦1年目から 
大活躍し得点王になった(その後9年連続得点王)
そしてこのシーズン中、ブラジル代表に選ばれた。

ブラジル代表に弱冠16才でデビューした(1957年7月7日)。デビュー戦が強豪アルゼンチン代表との対戦だったが、途中出場して代表初得点を決めた(試合は1対2で敗れた)。
3日後、再びアルゼンチンと対戦し初先発してまた得点した。ペレは1ゴールを決めた。ブラジルは 2対1で勝利した。
ペレは16才だったが強豪アルゼンチンから2試合連続ゴールをした。
ペレはブラジル代表デビュー戦から怪物ぶりを発揮し、この年齢で代表に定着した。

写真、左端が ペレ。シュートを撃った。

リオ・デ・ジャネイロのマラカナン・スタジアムで
行われた「コパ・ロカ」という、
両国の「定期戦の大会」に、ペレは出場した。

後半から出場し、後半31分、同点ゴールを決めた。
しかし、その1分後、アルゼンチンが追加点を決め
試合は、1-2で敗れた。

左の写真は、バルセロナ時代のエバリスト。

彼は5年の在籍で、リーグ戦で、78ゴール(114試合)を挙げた。現在でもリバウドの86ゴール(157試合)に次ぎ、バルセロナ歴代ブラジル人助っ人では2位の得点数だ。
バルセロナにはブラジル代表のエース級の名選手が数多く在籍したが(ロマーリオ、ロナウド・ナザリオ、
リバウド、ロナウジーニョ、ネイマールなど)、
彼はそれに匹敵する名選手だ。

エバリストは当時、ブラジル人FWでトップの1人だったが、25才の時に16才のペレにブラジル代表レギュラーの座を奪われて、代表落ちした。そしてW杯出場を逃した。
それぐらいペレが怪物で大天才だったという事だ。

写真は試合前、
左がペレ(16才頃)、右が父親、ドンジーニョ。
まだ保護者同伴であった。

ペレは、「トルネオ・リオ・サンパウロ」
(リオとサンパウロ、2州中で、最強チームを決める大会)に参加し、公式戦デビュー。
「第1節、サンパウロ戦(1957年4月26日)」で
3-1で勝利し、1得点した。

また「サンパウロ州リーグ」では
1年目から得点王。41得点(38試合)も決めた。
17才の誕生日の2カ月後、リーグ戦が終了した。

彼はまだ子供だったがブラジルで一番うまかった。
天才少年ペレは、「リーグ戦1年目から得点王」
という前代未聞の大活躍をした。
「最年少得点王記録」は未だに破られていない。

写真中央は、W杯1958年大会で決勝戦終了直後、優勝し、感動して泣いているペレ。まだ17才だった。右は、GKのジウマール。

ペレは最年少だったがチームのエースで、
チーム得点王となりブラジルを優勝させた。

ブラジル悲願の初優勝は17才の少年の大活躍によってもたらされた。
ペレは弱冠17才で12月にサンパウロ州リーグの得点王になった半年後、翌年6月のW杯でMVP級の活躍で優勝してしまった。
ペレは17才で最大の夢をあっさりと叶えてしまった。

写真は、17才でW杯に優勝して
「優勝トロフィー」を掲げるペレ。

ペレはW杯に大会史上最年少17才で参加して話題の選手になっていたが、大会が終わった時には主役になってしまい更に話題となり、この大会以降、サッカー界で一番注目される選手となってしまった。

ペレは17才で既に「スーパー・スター」になってしまった。

彼はまさに天才、怪物と呼ぶべき選手だろう。

ペレはW杯準決勝のフランス戦で17才で3得点しハットトリックを達成した。
彼は未だに「W杯最年少ハットトリック記録」を持っている。恐らくこの記録は永遠に破られないだろう。

日本人よ。高校サッカーで、
「天才」だの何だの騒ぐ、バカな事はいい加減、
止めろよ。
TBSは「消えた天才」とかいうバカな番組を
作るなよ。
天才は、「高校3年で、W杯を主役で優勝する」
んだよ。

写真は、1958年12月にペレが
「18才で、ブラジル史上シーズン最多得点記録、66得点(46試合)」を作り、
サントスFCで優勝した時の記念写真。

この年は半年前の6月、W杯に主役で優勝していた。
ペレは18才にして既にブラジル史上最高の選手になっていたのだ。

18才と言うと普通の若者はようやく下部組織からプロ・デビューする年齢だ。
しかし、ペレは既にW杯優勝し、
「シーズン史上最多得点記録」を作り、
ブラジル史上最高の選手になっていた。
彼は本当に他の選手とは次元の違う選手である。

左の写真は7-1で勝利した2年後、1961年、
イタリアでインテルと再戦したペレ(20才)。
右はバロンドール受賞者でインテルのエース、
ルイス・スアレス。

この試合も4-1で大勝した。ペレは1得点した。

W杯初優勝した翌1959年、サントスFCは欧州遠征してインテルと試合し、7-1で勝った。
この試合、18才のペレは4得点した。
大ショックを受けた当時のインテル会長は試合後、
ペレにオファーを出したがサントスFCは断った。

「ペレは欧州で通用しない」と言う日本人は歴史を知るべきだ。ペレはバルセロナFWから16才でブラジル代表レギュラーを奪った大天才で、欧州の強豪相手に点を取れる。

写真は、ACミラン時代、アルタフィニ。

W杯1958年のブラジル代表で2番目に若かった
19才、ジョゼ・アルタフィニは大会直後、
イタリアのACミランに移籍した。
当時、セリエAで歴代3位、216得点を決めた
(現在は歴代4位 [2018年時点])。
彼はACミラン・エースで、欧州チャンピオンズ・カップ、セリエAで得点王になった。
欧州CC優勝もした。
ペレより下手な2才上の選手が、欧州でこれだけ 大活躍できたのだから、ペレが欧州移籍したら容易に活躍したと考えるのが普通だろう。

ペレは「ブラジルの宝」だったので、
当時ブラジル政府は海外移籍に反対し、
サントスFCも手放す事を拒否した。

写真は、1963年のペレ。23才の時の写真。

これはクラブ世界一を決めるインター・コンチネンタル・カップの第1戦の試合前の写真だ。
これはイタリア、ミラノのサンシーロ・スタジアムでの写真。

左は、ACミランの司令塔MF、ジャンニ・リベラ
(1969年にバロンドール受賞した)。
この試合、サントスFCはACミランに2-4で敗れた。しかし、ブラジルでの第2戦(ホーム、しかしサンパウロではなくリオデジャネイロで開催した)を4-2で勝利してタイに戻した。
そして1勝1敗なので第3戦を行い、サントスFCは1ー0(リオデジャネイロ開催)で勝ち、
この年、世界王者となり、世界2連覇を達成した。

写真は、25才の時のペレ。
サントスFCのアウェー用のユニフォームを着て写っている写真。

ペレはサントスFCの伝説になった。

当時ブラジルは、W杯2連覇して国内に優秀な選手が数多く居たが、ペレは9年連続で得点王になった。

ペレは現役時代の垂直飛び(ジャンプ力)が
104センチで、現在のNBAバスケット・ボールの
一流選手と同じレベルである。
スピードも映像解析から元フランス代表の
ティエリ・アンリより速いことが確認されている。
ペレは身体能力において現在のトップ選手より優れていた。

写真は、W杯1970年大会に優勝し、3度目のW杯優勝を達成したペレ(29才)。
優勝セレモニーでトロフィーを掲げるペレ。

ペレはW杯1966年大会で、酷いファウルを何度も受け負傷して優勝できなかった事に怒り、25才
という脂の乗った時期に、ブラジル代表引退を発表した(これもよく考えれば25才で引退とは前代 未聞で凄い話である)。
しかし、その2年後に翻意して、再びブラジル代表に戻って来てW杯南米予選を戦い、そして3度目のW杯に挑戦した。そして優勝した。
大天才ペレにとって、W杯は17才の時から簡単な大会である。

写真は、W杯1966年大会で酷いファウルを受けて負傷した、ペレ(25才)。

この大会後、W杯であまりに酷いファウルを受けた事に怒り、ペレは、ブラジル代表を2年間も放棄した。

ペレは25~27才という選手として脂の乗った時期に代表を放棄してしまった。

既にW杯で2回優勝していた為、こういう決断が
出来たのかも知れない。
しかし、FIFAが新ルール
「イエロー(警告)、レッド・カード(退場)」を作った為、ペレは2年後に復帰した。
そして3度目のW杯優勝を簡単に成し遂げた。
さすが大天才ペレである。

写真は、W杯1970年大会のペレ。29才。
この翌年にブラジル代表を引退した。

2018年現在、ペレがブラジル代表引退して47年
経つが、未だに代表最多得点(77得点)は破られていない。
ブラジルは世界で一番名選手が数多く現れ、才能の宝庫と呼ぶべき国であるが、47年も記録が破られていない事はとても凄い事だ(今の方が代表の試合数が多いにも関わらずだ)。
全盛期に2年間休まなければペレは代表100得点を軽く達成できた。記録をもっと伸ばせた。
また33才ぐらいまで代表でプレイしてたらもっと記録は伸びた。そういう意味ではとても残念である(当時のサッカー選手は今より引退が早かった)。

「天才マラドーナ」とよく言われるが、天才という言葉はペレの方がふさわしい。
「サッカーの大天才」がペレである。

ペレはマラドーナより遙かに得点能力が高い10番である。
そしてペレはマラドーナより遙かに多くのタイトルを獲得した。

ペレは「正直言って、私の方がマラドーナより上だと思う」
とマスコミ、ファンが持ち出す
(アルゼンチンと西欧一部の国がやる話題)に
ついて回答している。

ペレにしてみれば、
「はっきり言ってしまえば両者は比較する段階ではない、答えは最初から分かり切っている事だ」
というのが本当の気持ちだろう。

写真は、ニューヨーク・コスモス時代のペレ
(34才頃)。

ペレは攻撃的MFでありFWではありませんでした。
ペレは一番点を取れるCFのポジションでプレイしていませんでした。
それでもCF以上に点を取っていました。

ペレは、「私はパスを多くしていた。
CFのロナウド・ナザリオやロマーリオと得点数を比べられる事に当惑する。
私は彼らとは違うポジションだった」
とコメントしています。

でもペレはその2人より得点数が多いです。

ちなみにサッカーの「エース・ナンバーが10番」と認識される文化ができたのは、ペレが10番を付けていたからです。
それ程、後世に大きな影響を残しました。

写真は、1962年、サントスFCの集合写真。
サントスFCはブラジル全国大会で5連覇し、
その攻撃陣はサッカー史に大きな足跡を残した。

前列右端がぺぺ。
前列右から2人目がペレ。
前列右から3人目がコウチーニョ。
前列左端がドルバル。

サントスFCの攻撃陣は
ペレ 656試合643ゴール、 
ぺぺ 750試合405ゴール、
コウチーニョ 457試合360ゴール、
ドルバル 612試合198ゴール。

公式戦ゴールが4人だけで1600得点以上になる。サッカー史上最強の攻撃陣だ。
サポーターは大量得点の試合が多くて、さぞ幸福だったろう。

ペレのハットトリック回数、92回は圧倒的である。
この記録は永遠に破られない可能性が非常に高い。


2018年現在で、「天才」と呼ばれる事が多い
リオネル・メッシですらペレの半分の回数しか残せていない。
現代の天才の能力を持ってしても、
この92回の記録には全く届かない。

W杯優勝回数最多、南米クラシコ最多得点、
ハットトリック最多等、ずば抜けている。
ペレが史上最高の選手とされるのは当然だろう。

1 2 3