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岡野保次郎(実業家)のまとめ

岡野保次郎(実業家)の経歴や航空機産業にどういった関わりがあったのかなどをまとめてみました。現代の航空機産業にどのような関わりがあるのでしょうか。

更新日: 2018年11月12日

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cat0l1nさん

岡野保次郎の経歴について

日本の実業家である岡野保次郎は、1917年に東京帝国大学法科大学の英法科を卒業、三菱合資会社働きはじめました。
三菱重工業神戸造船所航空機部を経て1942年には名古屋航空機製作所長へ就任。
3年後の1945年には常務に就任するなど非常に優れた才能を持ちあわせた人物です。
当時の名古屋航空製作所では、零式艦上戦闘機・雷電・四式重爆撃機・百式司令部偵察機などを作ったり、改良したりし毎日のように試作、新型の開発が行われていました。
しかし、空襲に遭い稼働できない状態に追い込まれてしまいました。

1946年には、三菱日本重工業の代表に。戦争に負けたあと航空機の生産や開発が禁止になりましたが、岡野保次郎は「航空は必ず再開する」と信じ続け造船、自動車、産業機械等々設計や技術者がそれぞれバラバラにならないよう様々な分野を手掛け分散しないように努めました。
この結果、サンフランシスコ講和条約によって、航空機研究の禁止が解除。
今まで温存してきた技術者を簡単に集結させたと言われています。

1950年、財閥解体によって三菱重工が分裂を余儀なくされました。
これにより清算人となり辞任へと追い込まれました。

戦後、三菱重工の社長となった岡野保次郎は、このような歴史を持つ長崎の造船所の副所長と、名古屋航空機製作所の所長を歴任した問題の人物だったが、荘田副会長に従えるGM懇談会の会長が、その岡野であった。岡野もまた、前章の【系図12】に三菱重工支配者として描かれている(305項)。したがって、戦後の誘導ミサイル研究は、三菱重工を中心におこなわれてきた。

名古屋航空機製作所ってどんなところ?

名古屋航空製作所は、名鉄常滑線大江駅を下車し名古屋港へと向かっていく途中にあります。特徴は、白い時計台。
周りの建物を見下ろす事のできる大きな時計塔を持っている白い建物こそが、昭和11年三菱工業名古屋航空機製作所の本館があったところです。

三菱工業名古屋製作所は、「零戦(零式艦上戦闘機)」が作られていた場所です。

周辺の三菱重工、三菱自動車工業、東レ、グラウンド等の敷地も当時は三菱大江工場だったのだそうです。終戦までに航空機18,000機,同エンジン52,000基を製作しました

三菱重工(株)名古屋航空機製作所飛行場 データ
設置管理者:三菱重工業
所在地:愛知県名古屋市港区大江町
座 標:N35°05′12″E136°53′32″
滑走路:300mx200m
方 位:14/32
標 高:1m
(座標、滑走路長さ、方位、標高はグーグルアースにて算出)

沿 革
1920年 三菱内燃機製造株式会社名古屋工場(現在の大江工場)開設
1921年 三菱内燃機株式会社名古屋工場に名称変更
1928年 三菱航空機株式会社名古屋工場に名称変更。(分離)
1934年 三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所に名称を変更。(統合)
1950年 財閥解体により旧三菱重工業は東日本重工業、西日本重工業、中日本重工業に分割される

国産飛行機「零戦」

日本で有名な国産飛行機「零戦」
この零戦は、三菱重工業が開発したもの。
ジブリで有名な「風立ちぬ」のモデルになった零戦の設計者、堀越二郎をモデルにした事によって、一躍「零戦」に注目が浴びるようになりました。

そして、今から70年以上も前に、MRJの開発で知られる三菱の名古屋航空機製作所の機体設計室で開発に奮闘する毎日でした。

しかし、第二次世界大戦で敗れた日本では数年間航空機を含む産業が禁止となりました。この期間、7年間程だったと言われています。

空白の7年間

戦争後、三菱、川崎重工の航空機製造は解散を余儀なくされました。
自動車、電車と言った産業機械等々へ分野を広げ事業を行ってきましたが、もともと軍事用の航空機専門でしたので全く盛り上がる事はありませんでした。
技術者は退職、しかし三菱内燃機名古屋航空機製作所長だった岡野保次郎は得意分野で技術を生かし、いずれ航空機をまた作ると信じて力を温存するように命じたのです。

停滞した航空機産業の復活

世界大戦に負けた日本は7年間という長い間「生産禁止」という厳しく残念な勧告をしました。
一体、この空白の7年間がなければ日本の航空機産業はどのようになっていたのでしょうか。

航空機の生産には多くの高度で専門性の高い技術が必要で、軍事用の生産となれば広い規模の産業になっていたと予測されます。実際に年間で3万機、これらを生産するのに必要な人員は100万人以上と言われているので、ゼロの状態からスタートしたとしても、戦後トップに立つ事はできたでしょう。

現在、新幹線や電車などの技術が最も高いと世界中から高い評価を受けているので、もしあの時戦争が起こらなければ産業としてもっと発展したことは間違いありません。

小型旅客輸送機の開発計画

1956年に、「オールジャパン」の名のもと三菱重工・川崎重工・富士重工が主導になり小型旅客輸送機の開発計画がされました。
戦後初めて作られたYS-11は世界的な評価を受け、180機以上生産をしたのですが結局航空機を利用したビジネス展開が難しかった事や共同開発がうまくいかなかった事もあり、たった10年という短い期間で生産終了となってしまいました。

小型旅客輸送機の生産を通達、舵をとってきた通産省は航空機業界のコメントが発表された

「通産省、経産省としては、航空機業界全体を育て上げようと3社ともに育成していく方針だった。しかし、寄り会い所帯だったため、各社の事情に左右されて迅速な決定ができない。責任の所在が不明確といった弊害が生じた。結局10年ほどで生産がストップしてしまい、民間機の開発は難しいということになってしまった。そして、日本の航空機メーカーはリスクを避けることに重きを置くスタンスにシフトしていったのです」

挫折によって停滞期を迎える

YS-11の生産計画が短い期間で終わりを迎えた事によって、国産の民間機生産というのは停滞期に突入しました。
日本は、ボーイングと共同生産を行ってきましたが、立場として下請けでしたのでコストの安さ、仕事への不安を抱えながらの作業になっていました。

1990年前後には日本独自のFSX(現・F2戦闘機)開発が進められようとしていましたが、アメリカの圧力によって共同開発という形を余儀なくされました。
航空機生産に関して、停滞期を迎え日本が考えた最終結論が、三菱重工が中心となって航空機の自主開発をするというものでした。

日本経済界にも、このまま停滞が続くと民間機開発が永遠にできなくなってしまう…そんな焦りもあったようです。

日本経済への影響が大きい財閥解体

財閥解体とは、第二次世界大戦のあとに行われたGHQが実行した占領政策の事です。
これは、日本がしてきた戦争への経済的な支援を行っていた財閥を解体するというもの。財閥解体をする事で、日本経済の民主化を図る事ができるので、GHQが促進したのです。

財閥解体では、持株会社整理委員会は発足資本金500万円以上の会社、又は大蔵大臣が選んだ会社の解散、事業譲渡への認可権を付与し、5年間かけて解散してきました。

財閥解体の流れ

一次指定では、日本を代表する4大財閥の他に富士産業も選定の中に入りました。
1946年にこの5社より持株会社整理委員会からもらう財産内容を聞き、執行された事によって実質財閥解体がスタートしました。
更に、指定された5社には財閥解散が伝えられ、長い間大きな影響力を持っていた財閥はついに終止符をうつ事になりました。
財閥解散によって、日本の経済へは多大の影響が与えられました。

1946年に解散の通知を受けた4大財閥の他に40社が二次指定として解散通知を受けました。
一次では、持株のみでしたがこの時にはトラスト、独占・寡占的企業が追加勧告となりました。

三次指定は、二次指定と同じ時期に行われ財閥傘下企業への勧告でした。
この時、三井物産と三菱商事が経済が悪化してしまうという考えを持株会社整理委員会に再度考えてもらうような活動を行いました。
しかし、こういった行為がGHQへの反感を買う事になり、最終的に解散となりました。
これらの会社は在籍1万人以上いたのですが、一時的に分散してしまいましたが最終的には同じ会社に戻るという結果になりました。

四次指定の場合は、1~3次とは違い電気通信施設の国有化政策という政策に基づいたもので、れ国際電信電話と日本電信電話公社が新設する目的の為に解散、のちにこの2社は国営となりました。

1947年9月、地方財閥・小規模財閥を対象に選定が行われました。
この時対象になった企業は全部で16社で、この勧告を最後に計画終了となりました。

財閥解体後と日本経済への影響

第二次世界大戦の前は、民主化とは言いにくい経済状況でしたが財閥解体によって市場独占が解消されたため、様々な企業は新規参入しやすくなったと言われています。

財閥解体後、日本経済を変革する事になり大きな影響を与える事になりました。
ただ、現在高度成長期もあり旧財閥企業は日本経済に君臨している状態です。

YS-11の開発がなければ…

生産中止になったYS-11ですが、あの時の技術がなければ日本航空の技術というのは違う方向に向いていたのかもしれない。
世界を見ても、軍事用の航空機を生産できるところはたくさんあります。
しかし、民間機を作る事ができる国というのはごくわずかと言われています。
実際今あるMRJはYS−11の技術が生かされた結果と言えます。

YS-11は国が主体となり計画、生産されたものですが、MRJは民間企業は力と知恵そして今までの経験をそれぞれが出して完成させた形です。
戦後、財閥解体した事により民間企業の意見を取り入れる環境ができ、MRJが誕生したのです。

日本が戦後積み重ねてきた「ものづくり」のノウハウが生かされた結果と言えるでしょう。

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