1. まとめトップ

日本国有鉄道史 高度経済成長と輸送力増強 第4話 昭和36年10月改正と全国特急網の完成

「もはや戦後ではない」が合言葉となった昭和30年代、国鉄では昭和33年に初めて特急電車「こだま号」により6時間半で東京~大阪間を走破するようになりました。

更新日: 2018年12月18日

1 お気に入り 267 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

鉄道ジャーナリスト加藤好啓です、今回はED30誕生の契機について書かせていただきました。

blackcat_katさん

もはや戦後では無いと言われた、昭和30年代前半

「もはや戦後ではない」が合言葉となった昭和30年代、昭和33年に初めて特急電車「こだま号」により6時間半で東京~大阪間を走破するようになりました。
昭和30年代という時代を総括しますと、なべ底不況と言われた景気調整局面は有ったものに、昭和29年から昭和36年12月まで右肩上がりの経済成長を遂げた時代と言えます。
経済成長と公害問題を内包していた時代ともいえますが、経済の成長は確実に個人所得を増やし、三種の神器と呼ばれた(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の購入することが目標となった時代でした。
道路の整備なども進み、高速道路建設が計画される等国鉄を取巻く環境も変わりつつありました。

京都~長崎・佐世保間を走っていた特急「かもめ」
堂々の13連であった
加藤好啓撮影 昭和50年2月頃

サンロクトウの改正は、高速自動車道への対抗策であった

そんな中、国鉄は昭和36年10月1日に全国白紙ダイヤ改正を行います。
当時の部内誌(国鉄線)を参照しますと、このダイヤ改正は3年前から準備されたとのことで、この改正の画期的だったことは全国に一気に優等列車網(特急列車網)を誕生させたことでした。
実際に、本社内でもこれだけの列車を作って大丈夫だろうかととう不安もあったそうですが、積極的な特急増発させた背景には、高度経済成長に伴う大都市間の流動が急激に増加したことや先ほども書きましたが、東名高速や名神高速に代表されるような高速道の建設が決定したことに対する不安でした。
 現時点で積極策に出ないと国鉄の将来は危ういという意識が幹部にあったからだと言われています。
 実際、特急網の充実は目を見張るものがありましたが、特急以外にも、気動車を使ったユニークな列車も設定されました。
 その一例として、
 宇野発(9:30)伯備線・山陰線経由 博多(22:00)行き と言った列車がありました。
 今では考えられないような列車ですが。笑

昭和36年11月号時刻表
コンパクト版

運転開始当初は、京都・大阪経由、松江行きでした

加藤追記
サンロクトウの改正は、多くの優等列車を誕生させることとなり、電化等による電化と相まって気動車特急が誕生しました。
なお、昭和35年に誕生した、特急「はつかり」は、運転開始後事故が連続して発生したため早期に落成させて、ダイヤ改正までに徹底的に走り込みを行うことで問題を解消しようとしたと言われています。
当時の苦労話として、昭和51年3月号の鉄道ジャーナルに、山之内秀一郎氏(後のJR東日本 初代副社長、元会長)が「動力近代化の陰に」というタイトルで寄稿されています。
これによりますと、試運転中は、往復で2,000km以上の距離を走って帰ってくると、エンジンが2~3基動かなくなっているのは日常茶飯事で、機関車に引かれて帰ってくる場合も有ったとのことであり、その都度、故障車を翌日までに修理して、再び送り出す問うことを繰り返したそうです。
他にも、80系気動車は制御に直流100Vをさいようしていたため、緊急工事で絶縁を強化したとも書かれています。

出典鉄道ジャーナル昭和51年3月号

1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)まで続いた神武景気は国際収支の悪化により急速に冷え込んだ。政府および日本銀行が国際収支改善のため強力な金融引き締め策をとったため、産業界は減益・減収、資金不足に陥り、操業短縮により在庫調整をおこなった。業種別では電力・陸運業などの一部を除き全面的に業績が低下、減配・無配になった企業が目立った。

鍋底不況に関しては、わかりやすい解説が知恵袋にありましたので、リンクを貼らせていただきます。

1