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幕府と薩摩のバトルもあった!日本初参加「パリ万博」

2025年に国際博覧会(万博)が大阪で開催されることが決定した。日本と万博の初めての関りは、1867年の第2回パリ万博参加から始まっている。同万博の裏で繰り広げられた幕府と薩摩藩のバトルや、印象派に影響を与えたジャポニズムなどについてまとめた。

更新日: 2019年02月10日

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aku1215さん

◆2025年の万博が大阪で開催されることが決まった日本

決定を喜ぶ松井大阪府知事(右)ら

2025年国際博覧会(万博)総会で、大阪が11月23日に開催地として選ばれました。日本にとっては、2005年以来の大規模万博の開催、そして大阪開催は55年ぶり。

大阪が万博の開催場所としているのは、大阪市此花区にある人工島「夢洲」だ。将来的には390全体で390ヘクタールとなる予定の夢洲。万博の会場用地は155ヘクタールが確保され、2025年5月3日から11月3日まで計185日間の開催を予定。

◆ロンドンから始まった万博の歴史 テーマは時代と共に変化

1851年にロンドンで始まった。産業革命で工業化した国々の巨大産業見本市との位置づけで、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた1970年の大阪万博は代表例。

近年はあり方が見直され、博覧会国際事務局(BIE)は94年の総会で、万博のテーマに「現代社会が直面する課題解決を掲げること」を提言した。

2025年大阪万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。コンセプトを「未来社会の実験場(People’s Living Lab)」とし、展示をみるだけでなく未来社会を「共創」することを目指す。

◆日本が初めて参加した第2回パリ万博(1867)

主催国フランスにとっては、皇帝の威信が五大陸に及んだ国家行事であり、参加国が産業技術を競い、同時に国際文化交流が行われた祭典でもありました。

当時はナポレオン3世の第二帝政時代

出品者数は6万、入場者数は906万人と1851年の第1回ロンドン万博を凌ぐものとなり、成功を収めた。

◆その後の万博のモデルとなり、EVなどが広まるきっかけにも

会場には、シャン・ド・マルスの14万6,000平方メートルという広大な敷地があてられることになった。ここに、中央の温室庭園を囲んで7つの回廊が同心円状に広がる巨大な楕円形の展示会場が建設された。

メイン会場の外周には100軒を超える各国の展示会場、売店や遊園地、レストランなどが立ち並び、人気を博した。こうしたアイデアは第2回パリ万博が最初の試みであったが、娯楽施設を設置した明るいお祭り雰囲気の万博は、その後の万博のモデルとなった。

賞を獲得した機械や工芸品は、その後商品化されて普及していきます。エレベーターや織機などの大型機械、サクソフォンなどの楽器もこの万博がきっかけで世界に広まりました。商品や情報、人々が各国から集まる万博は、世界を変えるほどの影響力があったのです。

◆実は徳川幕府と薩摩・佐賀藩は別々に出品

薩摩藩はベルギー貴族モンブラン伯爵を代理人とする貿易商社設立の契約を交わしており、幕府の命を待たずに独自に「薩摩・琉球国」としてパリ万博への出展を進めていた。

つまり、実情は薩摩の動きに幕府が追随するかたちであったということです。佐賀藩は幕府に応じるかたちで、パリ万博への参加。

◆裏では激しい維新前バトルが繰り広げられた

薩摩藩は参加記念章として「薩摩琉球国」の勲章を作り、ナポレオン3世をはじめフランス高官に贈った。

将軍の名代として海を渡った徳川昭武にとっては、国際舞台へのデビューであり、幕府の存在と権威を示す外交の場でした。

薩摩藩は幕府の統治に疑問を投ずる外交宣伝を行いました。維新前夜の対立は万博会場でも繰り広げられたのです。

薩摩藩は独自に勲章を製造し各方面に配るなどしたため、西洋諸国の間に、日本には主権国家が複数あるとの誤解を与え、幕府の立場に疑問を持つものも現れた。こうして幕府の使節団と薩摩藩との間に摩擦が起こり、関係者はその調整に苦慮したとある。

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