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この記事は私がまとめました

戦前、日本海軍は空母機動部隊の集中で真珠湾攻撃に成功しましたが、開戦半年でミッドウエー海戦で空母4隻を失いました。そしてマリアナ沖海戦で空母機動部隊は事実上壊滅しその栄光の歴史を閉じたのです。ここに日本海軍の海戦の原動力となった空母をまとめてみました。

ezurerikiさん

鳳翔

鳳翔(ほうしょう/ホウシヤウ[29])は、日本海軍初の航空母艦[30]。 起工時から航空母艦として設計されて完成した世界初の新造空母[31]。鳳翔は、設計段階から空母として計画され、建造された世界初の艦である。既成の軍艦を改造してできた改造空母は存在し、最初から空母として設計された艦の起工はイギリス海軍のハーミーズ(1918年1月)が世界初であったが、1918年11月に第一次世界大戦が終結したため、完成を急ぐ必要がなくなり、1920年12月16日に起工された鳳翔が1922年12月27日に完成し、世界初の新造空母となった[33]。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E7%BF%94_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)

赤城

赤城は、天城型巡洋戦艦の2番艦として起工された未成艦を空母に改造されたもの。三段式空母として完成したが、後に一段全通式空母に改装された。1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で沈没した。赤城の艦名は群馬県前橋市の赤城山にちなんで命名された[9][10]。日本海軍の軍艦としては、摩耶型砲艦の赤城に続いて二隻目[11]。同型艦の天城同様、巡洋戦艦の命名基準に則り山から名前が取られ、その名前のまま空母に改装された建造当初の赤城の飛行甲板はイギリス海軍空母フューリアスの第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(赤城は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。

加賀

加賀は、ワシントン海軍軍縮条約の結果建造中止となった加賀型戦艦を改装した大型空母であった[25]。

ワシントン海軍軍縮条約による主力艦の制限下、補助的艦種としての航空母艦の運用が研究され始めた。そんな中で行なわれた2隻(加賀、赤城)の改造ではあるが、当時日本海軍には空母の建造経験は小型空母鳳翔しかなく、戦艦や巡洋戦艦からの改装も日本海軍初だった。横須賀に繋留されていた加賀は、そのまま横須賀海軍工廠で改造工事を受ける[68]。同年11月19日、戦艦加賀および天城型巡洋戦艦2番艦赤城の空母改造が正式に通達された[69]。同日附で航空母艦「翔鶴」(初代)の建造中止が通達され[70]、航空母艦として登録された2隻(加賀、赤城)と入れ替わる形で除籍された[2][71]。(昭和7年)、第一次上海事変が勃発。加賀の実戦参加となり、これが史上初の空母の実戦参加でもあった。(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で沈没。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)

蒼龍

蒼龍(そうりゅう / さうりう)は、大日本帝国海軍の航空母艦[21]。二航戦所属艦。1942年6月5日にミッドウェー海戦で沈没。蒼龍は建造に至るまで、航空巡洋艦も検討されるなどの紆余曲折を経て、最終的には先行艦(鳳翔、赤城、加賀、龍驤)の運用経験に基づいて設計、日本初の本格的空母として誕生した[22]。艦橋は右舷前部にあり、右舷中部に下方排出式の煙突を2つ持つ。格納庫は2層式で、エレベーターは3基。後部エレベーター脇には揚収用クレーンを備え、加賀や龍驤に見られた格納庫後端の扉は廃止されている。15万馬力の機関を搭載した蒼龍の最大速力は34.9ktを記録し、日本海軍では最も高速の航空母艦であった。また、排水量制限のために搭載機数は大型空母(赤城、加賀)より少ない。少しでも格納庫スペースを確保するために、ボイラーへの給気や機関室の排気などは船体中央付近の舷側に外付けされた箱型の通風筒で行われており、蒼龍、飛龍の外見上の特徴となっていた。

飛龍

飛龍(ひりゅう/ひりう)は、大日本帝国海軍の航空母艦[26]。1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦にて沈没した。昭和9年度海軍軍備補充計画(通称・マル2計画)で建造された中型空母である。当初は蒼龍の同型艦として計画・建造されていた。だが軍縮条約破棄により設計の自由度が増したため、飛行甲板幅を1m広げ艦幅を若干太くし[27]、さらに第四艦隊事件による船体構造溶接化の破棄[28]、凌波性向上のため艦首1m・艦尾40cm乾舷を高めるなど蒼龍とは違う図面で建造された空母となった[29]。特徴としては改装後の赤城同様、左舷中央に島型艦橋を配置していることである。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%BE%8D_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)

翔鶴

翔鶴(しょうかく/しやうかく)は、大日本帝国海軍の航空母艦(空母)[22][23]。翔鶴型航空母艦の1番艦[24]。翔鶴は大和型戦艦1番艦大和、2番艦武蔵と共にマル3計画にて建造され、大和とほぼ同時期に竣工した。アメリカのエセックス級やイギリスのイラストリアス級と同様、ワシントン海軍軍縮条約終了後に設計建造されたため、必要かつ十分な装備を持つ大型空母として完成した[25]。 翔鶴型空母2番艦瑞鶴との作戦行動時には翔鶴が損害を受けることが多かった[26][27]。真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ろ号作戦等に参加するなど日本海軍機動部隊の主力空母として活躍したがマリアナ沖海戦で撃沈された[28]。

瑞鶴

瑞鶴(ずいかく/ずゐかく/ズヰカク)は、大日本帝国海軍の航空母艦。翔鶴型航空母艦の2番艦[24][25]。艦名には翔鶴型の2番艦として翔鶴から踏襲された「鶴」に、めでたいという意味の「瑞」をあてた。 瑞鶴は、太平洋戦争で、真珠湾攻撃、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦等の海戦に参加し、同型艦の翔鶴と共に日本海軍の主力艦として活躍したが[26]、翔鶴と対照的に、マリアナ沖海戦まで一発も被弾しなかった幸運艦であった[27][28]。

瑞鶴は翔鶴とともに日本の軍艦では初の球状艦首を採用して高速化が図られ、防御力も炸薬450キロの魚雷の直撃にも耐えられるように設計された[29]。

大鳳

大鳳(たいほう)[28]は、日本海軍の航空母艦。日本の空母としては初めて飛行甲板に装甲を張るなど技術的に最も発達を遂げた艦であったが、1944年6月19日のマリアナ沖海戦においてアメリカ海軍の潜水艦の雷撃で損傷した後に航空用ガソリンタンクから漏洩し、引火したため大爆発を起こして沈没した。わずか3カ月の艦歴だった。大鳳の船体は翔鶴型航空母艦をほぼ踏まえたものであるが[29]、飛行甲板の装甲化による重心上昇を防ぎ復元力を確保するため、艦内甲板は1層減らされており、艦内の容積は翔鶴型より小さくなっている[30]。全長は翔鶴型とほぼ同じ長さだが、海面から飛行甲板までの高さは公試状態12.4m、満載状態で12m程度で飛龍型に近い低いものであった[30][31]。

神鷹

神鷹は[20]、日本海軍の航空母艦[22][23]。神鷹の前身は、第二次世界大戦勃発によりドイツに戻れず兵庫県神戸港に係留されていたドイツの客船シャルンホルストである[24][25]。

1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー海戦で主力空母4隻を喪失した日本海軍はシャルンホルストを買収、呉海軍工廠で軽空母へ改造する[21][25]。建造中止になった大和型戦艦4番艦111号艦(呉海軍工廠)より資材を流用[26]。客船から空母への改造には、約1年3ヶ月を要した[27]。 1943年(昭和18年)12月15日に空母として竣工[28]。その際に神鷹と改名した[20][24]。

1944年(昭和19年)中盤に改造完了後、神鷹は海上護衛総隊に所属して輸送船団護衛任務に従事した[23][27]。ヒ81船団を護衛中の同年11月17日、済州島沖でアメリカ軍潜水艦のスペードフィッシュの魚雷攻撃を受け、沈没した[29][30]。

信濃

信濃(しなの)は、日本海軍の航空母艦[2][37]。艦名は旧国名の信濃国から採られた。第二次世界大戦の最大航空母艦だった。[38]信濃(しなの)は[2]、日本海軍が建造した航空母艦[37]。 マル4計画にもとづき横須賀海軍工廠で1940年(昭和15年)5月に起工した大和型戦艦3番艦(110号艦)を[37]、ミッドウェー海戦以降の戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更したものである[39][40]。

1944年(昭和19年)11月19日、航空母艦として竣工[41]。 11月28日、空襲を避けるため未完成[42]のまま横須賀から呉へ回航される[37]。第17駆逐隊(磯風、浜風、雪風)に護衛されて航行中の11月29日午前3時20分[43]、信濃は紀伊半島潮岬沖合で米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷攻撃をうける[44]。魚雷4本が命中[43]。浸水が止まらず、午前10時50分頃に転覆して沈没した[45]。 竣工から沈没まで10日間であった[37]。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)

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