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イギリスが植民地としていた、アメリカの13植民地とはどこのこと?

ミュージカル『ハミルトン』は、実在した人物アレクサンダー・ハミルトンを描いたミュージカルです。アメリカがイギリスの植民地下であった13の地域とはどこなのかまとめましたよ。

更新日: 2019年01月05日

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この記事は私がまとめました

ミュージカル『ハミルトン』は、実在した人物アレクサンダー・ハミルトンを描いた作品です。

イギリスからの独立を描いた作品ですが、当時の13植民地とはどこを指すのでしょうか?

ニューイングランド植民地群
  ニューハンプシャー植民地(ニューハンプシャー)
  マサチューセッツ湾直轄植民地(マサチューセッツ)
  ロードアイランド植民地(ロードアイランド)
  コネチカット植民地(コネティカット)
 中部植民地群
  ニューヨーク植民地(ニューヨーク)
  ニュージャージー植民地(ニュージャージー)
  ペンシルベニア植民地(ペンシルベニア)
  デラウェア植民地(デラウェア)
 南部植民地群(英語版)
  メリーランド植民地(メリーランド)
  バージニア植民地(ヴァージニア)
  ノースカロライナ植民地(ノースカロライナ)
  サウスカロライナ植民地(サウスカロライナ)
  ジョージア植民地(ジョージア)

イギリス帝国では、1607年のヴァージニアに始まり、1732年のジョージアにいたる北アメリカ大陸東海岸に13植民地が形成された。フランス北米植民地とくらべると、ヨーマン(自営農民)として家族単位での植民と定住が一般的であり、そのため人口も多く、かれらは農地の確保を指向していたため、先住民であるインディアンと衝突することも多かった。イギリス国王の特許状による自主的な運営がおこなわれ、政治的自由が認められており、その緩い支配は「有益なる怠慢」と称されていた。
13植民地の経済的な特色は、北部と南部では著しく異なり、中部はその中間的な特色を有していた。

プリマスやマサチューセッツなどを中心とするニューイングランド植民地(北部植民地)はピューリタンが多く、自主独立の気風が強かった。この地域では庶民の立法機関であるタウンミーティング制度が発達していた。豊富な水力や木材を利用した工業も発達し、産業資本家や労働者の形成もみられた。農業の大規模経営は発展しなかった。

ヴァージニアやサウスカロライナなどの南部植民地では、プランテーションとよばれる大規模農業経営が広まった。そこでは当初白人の年季契約農を使用していたが、労働力不足からしだいにアフリカ大陸から黒人を奴隷として輸入するようになった。プランターの多くは保守的で、またカトリックの勢力が多かった。そこでは、本国の議会制度を模したカウンティ(郡)の制度が採用されることが多かった。

ニューヨーク、ペンシルベニアなどの中部は小麦を中心とする農産物輸出がさかんであったが、奴隷制プランテーションは発達せず、農業と商業を中心に発達した。

それでは各エリアの特徴を1つずつ見ていきましょう。

①ニューハンプシャー植民地(ニューハンプシャー)

ニューハンプシャー植民地(ニューハンプシャーしょくみんち、英: Province of New Hampshire)は、1691年10月7日から1788年まで、北アメリカ現在のアメリカ合衆国ニューハンプシャー州の領域に存在したイギリス王室領植民地である。その勅許は1692年5月14日にイングランド王国とスコットランド王国の共同君主となったウィリアムとメアリーによって、マサチューセッツ湾直轄植民地と同じ時に法制化された。どちらの植民地もマサチューセッツ湾植民地の一部だった。
ニューハンプシャー植民地はニューファンドランド知事ジョン・メイソンによって、イングランド南部ハンプシャー州に因んで名付けられた。
この植民地は1741年まで専従の総督がいなかったが、その後ベニング・ウェントワースが指名された。その後のニューハンプシャー払下げで与えられた土地の多くは後にバーモント州となった。

②マサチューセッツ湾直轄植民地(マサチューセッツ)

マサチューセッツ湾直轄植民地(マサチューセッツわんちょっかつしょくみんち、英: Province of Massachusetts Bay)は、イングランド王国とスコットランド王国の共同君主ウィリアムとメアリーから1691年10月7日に与えられた勅許によって北アメリカに成立した王室領植民地である。この勅許は1692年5月14日に有効となり、それまでのマサチューセッツ湾植民地、プリマス植民地、さらにはメイン植民地、マーサズ・ヴィニヤード、ナンタケットおよび現在のノバスコシアを包含した(ノバスコシアは1696年に分離し、1713年にノバスコシア植民地となった)。ニューハンプシャー植民地はマサチューセッツ湾直轄植民地成立時にマサチューセッツ湾から独立を果たした。
マサチューセッツという名前はアルゴンキン語族の先住民族マサチューセッツ族から来ていた。この名前は「大きな丘で」「大きな丘の場所で」あるいは「丘の連なりで」と訳され、ブルーヒルズあるいは特にグレート・ブルーヒルに引用された。

③ロードアイランド植民地(ロードアイランド)

ロードアイランド植民地(ロードアイランドしょくみんち、英: Colony of Rhode Island and Providence Plantations、ロードアイランド及びプロビデンス・プランテーション植民地)は、1636年から1790年まで、北アメリカ現在のアメリカ合衆国ロードアイランド州の領域に存在したイギリス領植民地である。1636年、神学者、独立した説教師および多言語に堪能であったロジャー・ウィリアムズがナラガンセット族の酋長カノニカスから贈られた土地に設立した。ウィリアムズはマサチューセッツ湾植民地から宗教的迫害を受けて逃げてきた者であり、仲間の開拓者達と「公共の事項」における多数決原則と「良心の自由」を定めた平等主義的憲法で合意を形成した。

1637年、バプテストの指導者アン・ハッチンソンがアクィドネック島を先住民族から購入しポカセット、現在のポーツマスに入植した。ハッチンソンと共に入植した者には、その夫ウィリアム、ウィリアム・コディントンおよびジョン・クラーク等がいた。その他の近在にも逃亡した入植者が続き、開拓地は緩い同盟を作った。しかし、彼らはその独立に対する脅威への反応として、共に1643年にイギリス領植民地としての認知を求めた。ロンドンの革命を呼ぶ長期議会が1644年3月に土地の特許を認めた。植民地人は知事を持つことを拒否したが、選出された「プレジデント」と評議会は設定された。
この植民地は当時として大変進歩的であり、魔女裁判を廃止し、債務による収監や大半の極刑を廃止する法律を成立させ、さらに1652年3月18日、黒人および白人双方の資産としての奴隷制を廃止した。

④コネチカット植民地(コネティカット)

コネチカット植民地(コネチカットしょくみんち、英: Connecticut Colony)は、1636年から1776年まで、北アメリカ現在のアメリカ合衆国コネチカット州の領域に存在したイギリス領植民地である。当初は川の植民地 (River Colony)と呼ばれ、ピューリタン貴族の受け入れ地として1636年3月3日に組織化された。初期のオランダとの闘争後、1630年代後半までにイギリスが恒久的な支配権を取った。この地域は後に、ピクォート戦争と呼ばれるイギリス人と先住民族の間の血腥い戦争の舞台となった。これは、チャーターオーク事件と呼ばれるニューイングランド自治領の地元権威に屈服するのを拒否した伝説的出来事と共に、新世界に自治政府を打ち樹てるために重要な役割を演じた。
今日のコネチカット州にあった2つのイギリス植民地、セイブルック植民地が1644年に、ニューヘイブン植民地が1662年にコネチカット植民地に併合された。

⑤ニューヨーク植民地(ニューヨーク)

ニューヨーク植民地(ニューヨークしょくみんち、英:Province of New York)は、17世紀中頃に、イギリスがオランダ領「ニューネーデルラント植民地」を占領した結果として始まった植民地である。その領域は現在のニューヨーク州大半とニュージャージー州、デラウェア州およびバーモント州を含んでおり、またコネチカット州、マサチューセッツ州およびメイン州の内陸部が含まれていた。
この植民地はオランダから勝ち取った1664年にイングランド王チャールズ2世の弟、ヨーク公ジェームズに因んで名付けられた。ニューヨーク植民地議会は1776年にそれ自体がニューヨーク邦政府であると宣言して、実質的にイギリスから分離し、翌年ニューヨーク憲法を批准した。アメリカ独立戦争中、イギリスが北アメリカにおける活動の軍事と政治の基地としてニューヨーク市を占領する間、イギリスの総督が事実上統治したが、元植民地の残り大半はパトリオットの手にあった。ニューヨークの如何なる部分においてもイギリスの権益は1783年のパリ条約で終わった。

⑥ニュージャージー植民地(ニュージャージー)

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