1. まとめトップ

日本国有鉄道史 新幹線建設と国鉄 第1話 十河信二総裁と阿川弘之

今回は、旧海軍士官で、鉄道ファンでも有り、戦後は作家としての地位を確立された、阿川氏ですが、新幹線建設に関しては非常に批判的で、新聞社の取材に対して、世界三大バカ(ピラミッド・万里の長城・戦艦大和)いずれも大きすぎるが役にたたないとし、新幹線も同じ道を辿るのではと批判していました

更新日: 2019年01月12日

1 お気に入り 321 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

鉄道ジャーナリスト加藤好啓です、今回から2回に分けて、新幹線建設と国鉄と言うタイトルでお話を進めさせていただこうと思います。当時は、新幹線建設はそれこそ狂気の沙汰だと言われ、国鉄部内だけで無く、世論も新幹線の建設には反対という雰囲気でした。

blackcat_katさん

新幹線の計画は戦前の弾丸列車計画まで遡ることに

今回から、何回かに分けて新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。

新幹線に関しては、戦前の弾丸列車計画まで遡ることができます。

実際に、丹那トンネルなど一部の区間は建設に着手していましたし、日本坂トンネルのように戦前には完成し、一時期は在来東海道線で利用された区間もあったと言われています。

弾丸列車

建設と挫折
1940年(昭和15年)9月に鉄道省が「東京・下関間新幹線建設基準」を制定し、同年に帝国議会で「広軌幹線鉄道計画」が承認され、国家が1954年(昭和29年)までに開通させることを目標とした「十五ヶ年計画」に基いて総予算5億5600万円をかけて建設を行うことが決定した。これに基き用地買収・工事が開始されることとなる。

最高速度150m/hで計画されていた

加藤追記
弾丸列車構想では、東海道区間・山陽区間でかなりの土地が買収されていたらしいです。
wikiによりますと、かなり強引な買い上げで、有無を言わさずと言った用地買収であったと書かれています、実際戦後は、弾丸列車として買収された土地の払い下げの訴訟などが行われたとされています。
これにより、山陽新幹線区間の多くが元の所有者に返されたそうで、新たに山陽新幹線を敷設する際に特に山側に設置することになったのは、こうした背景があると言われています。

この辺については、国鉄部内誌「国有鉄道 昭和55年2月号」に江藤参議院議員氏(元常務理事・関西総支配人)と島秀雄氏(元国鉄技師長・現・宇宙開発事業団顧問)の談話が載っていますので、以下に引用したいと思います。

注:島氏の役職は当時のもの

国有鉄道 昭和55年2月号から引用

江藤 やはり東京~大阪間で3分の1の用地を確保していたことが計画をすすめ
る上で大いに役に立っているでしょうね。
 ところが、戦後私が本社理事になって最初の理事会の議題が新幹線の用地を払い下げようっていうんです。そこで私が一人で大反対しましたら袋だたきにあいましてね。そのころは車両の破れた窓ガラスをどうするか、なんて物がない時代でしたから、新幹線なんていうので座がしらけましてね。いつやるんだとイヤミいわれたんですけど、私は戦争で何もなくなってしまった、とにかく日本を復興するんだ、復興できたら真っ先に必要になるのは新幹線だと言ってガンバッたわけです。結局、岡山以遠は払い下げましょうということで妥協したんです。実は岡山以遠はほとんど買ってなかった(笑)。ですから用地はほとんど全部確保したんです。
司会 新幹線の計画が決まるころ、島さんは技師長をしておられて、いろいろご苦労された話があると思いますが……。
島 東海道の輸送はずい分詰まってまして。もう1線必要だという機運は鉄道の中で当然起こっていました。世間では高速道路を作って自動車でやればよいとかいう話で、名神が半分できたかどうか、東名はいつになるかわからないくらいの時だったんですけど、東名・名神ができれば大丈夫という人はいたわけですね。それじゃダメだと外に対していうのはむずかしかったですね。
 国鉄の中でも、もう1線どんなものを作るかについては、議論がありましてね。今のような用途別にわけて輸送的にシンプルな急行旅客だけを新線にやって、ノロノロしたのを在来線にまとめて、輸送力を発拝させれば十分役に立つということを了解してもらうにはなかなか骨が折れましたね。途中で計画がおくれたり、ダメになった時でも使い道がなくならないように,少しずつ部分線増でやろうというそのころの考え方を思想転換させ
るのが一番むずかしかったと思いますね,
林 担当者クラスに)一般的考え方は,た来線にはりつけ線増して,困っている所
から部分開業した方がいいという議論でしたね。
私もそうで,上にたてついたほうです。
鳥 強い人がそういうことをjうから骨が折れてね(笑)。
林 結局,十河総裁の大方針で,いや全然別線でいくんだと,最終的に決まったわけですけどね

注:林氏は、島氏が技師長の頃の常務理事で、座談会の当時の役職は日本信号株式会社社長)

加藤追記
ここで面白いことは、戦前に弾丸列車構想で東海道新幹線の土地の多くは戦前に買収されていたという話は聞きますが、山陽区間にも買収されて、かつ戦後元所有者に戻すように運動があったと言うのは私も実は知りませんでした。
ただ、ここの交渉で、岡山以遠を所有者に返そう、実際には殆ど岡山以遠は買収していなかったという話や、国鉄(当時は鉄道省)での話題が弾丸列車のために買収した土地を払い下げる異への議論があったと言うのは大変興味深い内容です。
ただ、実際には山陽区間は岡山以東も実際には返還に応じているようで、下記blogにその辺が詳しく書かれているようです。

江藤氏・島氏の経歴等は下記を参照ください。

部内には守旧派が多かったが、最終的に十河総裁の決断で決定された新幹線計画

昭和30年代の輸送力はひっ迫しており、東海道線の全線複々線化も視野に入れて検討されましたが、鉄道技術研究所が新幹線による東京~大阪3時間運転の可能性を示したことを受け、鉄道が斜陽産業と思われていた中に光明を見出したと言えます。

最終的には、十河信二の決断が大きかったと言えましょう。
世間は鉄道斜陽論が一般的であり、鉄道は時代遅れであり今後は飛行機や高速道路による自動車輸送が増大するものであり、高速鉄道などは妄想の産物でしかないと言われていました。

このように、新幹線建設に関しては並々ならぬ情熱を持っていた十河総裁でしたが、当時の国鉄は運輸省から分離したとはいえ、国鉄自身も、そして政府も国鉄は国の機関という意識が双方にあって、運輸省は国鉄を監督する立場にあるとはいえ、その立ち位置は現在の国交省とJR各社という位置づけとはかなり異なっていました。

世界四大バカと評した阿川氏

また、作家の阿川弘之(元海軍士官で、絵本・「きかんしゃやえもん」の作者)が、世界の三バカと呼ばれた(ピラミッド・万里の長城・戦艦大和)と同じく、新幹線も同じ道を辿るのではないかと、新聞で発表し、国鉄に再検討を促したと言った話もありました。

きかんしゃやえもん

現在も書店で購入できる子供向け絵本

胆力の人、十河信二

それでも、十河信二としては高速輸送としての新幹線が国鉄が生き残るべき道であると信じて建設に邁進することになります。
新幹線建設の計画には、桜木町事故で引責辞任していた島秀雄を口説いて副総裁格の技師長として迎え入れ、島技師長とのコンビで新幹線計画は進められました。

改めて、こうして十河信二という人を振り返ってみますと、改めて胆力のある総裁であったことが伺えます。

特に、国鉄は、輸送量の増大もあったとはいえ、十河総裁在任中の国鉄は黒字決算を続けていましたし、動力近代化による運輸の合理化や、支社制度の導入による本社機能のスリム化等、機構改革にも着手して政治力を発揮しています。
また、新幹線建設に関しても政治力を発揮し、当時の大蔵大臣、佐藤栄作の助言により世界銀行からのの借り入れなどを実現させたことも特筆されます。
ただ、当初から新幹線の建設費を過少に見積もっていたこと、さらに新幹線建設のために地方交通線(ローカル線)の建設を渋ったことなどから、新幹線開業前に昭和38年には再任されることは無かったのですが、これは上記のような理由で政治家に嫌われて詰め腹を切らされた形でした。その後は国鉄監査委員を務めていた、石田禮介氏に総裁の任が回ってくることになるのですが本題から外れますので、今日はこの辺で止めておくこととしましょう。

加藤追記
十河総裁は、最初から本当の金額を提示すれば反対されるのはは判っていたので、低めの数字を見積もったと言われています。
この辺は、夢の超特急ひかり号が走った.十河信二伝でこのようなエピソードが書かれています。
少なく見積もっても3000億円必要と島秀雄氏は計算したのですが、それでは予算が通らんから、半分にしてくれと言い切ったそうです。
「額面はともかく、予算さえ通してしまえばいい、後は何とか俺の政治力で何とかする」ということで、予算を1,972億で通してしまうのでした。
最終的には、予想通り予算不足となり、その責任を取る形で総裁を辞任することになりました。国鉄当局としても、十河氏を新幹線開業日には呼ばなかったのですが、新幹線に成功を受けてマスコミが、新幹線生みの親として取り上げるため、国鉄当局も新幹線生みの親として遇することになるのですが、色々な意味で豪胆な人であったと思います。

新幹線に関連する記事一覧

1