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バリオス=マンゴレ 知られざる鬼才ギタリストの数奇な人生

“ギターの神様”アンドレス・セゴビアをも恐れさせた、南米の先住民族をルーツに持つ驚異のギタリスト/作曲家「アグスティン・バリオス=マンゴレ」。セゴビアの妨害によって一度はギター史から忘れかけられるも、現在では数多くのギタリストが彼の作品集を発表するなど再評価されている真の天才音楽家。

更新日: 2019年01月13日

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この記事は私がまとめました

これほど謎に満ち、魅力に溢れた音楽家はなかなかいません。まとめの最後には現代最高峰のギタリストたちによるバリオスの名演も紹介しています。

鬼才ギタリスト、アグスティン・バリオス=マンゴレ

Agustín Barrios Mangoré
1885年5月5日 - 1944年8月7日

パラグアイのギタリスト/作曲家/詩人。

アグスティン・バリオス・マンゴレ(パラグアイ1885-1944エルサルバドル)。パラグアイが生んだ最高のクラシック・ギタリスト兼作曲家と言われています。

バリオスの作品の多くは、中南米の民俗音楽に影響を受けています。

クラシックの作曲家に位置付けられていますが、バリオスの音楽は彼が生まれ育ち、旅をした南米各地の民族音楽の要素が随所に見られます。

バリオスは、ちょうどラフマニノフと同じく、並外れて大きな手をもつ演奏家であった。このためその作品は、技巧的に難度が高い箇所だけでなく、一般的には不可能な運指が左手に要求された箇所も散見される。

バリオスの作品は非常に難度が高いものも多い。

紙幣の肖像になるほどの英雄

バリオスの肖像が描かれたパラグアイの紙幣。

1905年頃になると彼は真剣に作曲活動を始めますが、その頃にはほとんどのギター奏者の演奏技巧や能力を上回るようになっていました。

1906年に21歳で大学を卒業すると、驚異的な演奏力で有名となり、1910年にはアルゼンチンやウルグアイでも演奏し、1916年にはブラジルに行ってここで15年に及んで生活をしました。

バロック様式の色調が濃い『大聖堂』をはじめ、多くの楽曲を世に送り出し、頻繁にアメリカ、ヨーロッパ、中南米にて海外公演をしていたそうです。

1944年、心臓病のため、エルサルバドルに客死、、、、59才であった。
パラグァイでは、バリオスは今なお尊敬されており、すべての時代を通じて、最も偉大な音楽家の一人である。

バリオスの音楽はギターの新しい地平を切り拓いた

ギターの世界はバリオス以前とバリオス後に分けられると思います。

バリオスの音楽は、クラシックギターの新しい境地を切り拓いたと評価されています。

バリオス音楽の大きな特徴と言えるのが南米のリズムや民謡などを取り入れた作品です。

「サロン音楽」がヨーロッパのクラシック(ギター)音楽の伝統を踏まえた作品群だとすれば、こちらは20世紀においてギターの新たな地平を切り開くこととなる音楽の先駆けと言えるでしょう。

偽名「ニツガ・マンゴレ」での活動も

頭に羽飾りをつけ、エキゾチックな民族衣装に身を包む謎のギタリスト「ニツガ・マンゴレ」

これはスペイン人と先住民族の混血という、バリオス自身のルーツを世間にアピールしたものだったようです。

数年間「ニツガ.マンゴレ」(Nitsuga Mangore')との偽名を名乗った事もある。

Agustin を逆から綴った「Nitsuga」という偽名での活動では、彼のルーツを表現したその派手な出で立ちも話題になったようです。

パラグァイで先住民グァラニー族の血を引いて生まれたバリオスはあるときから、明らかに民族意識を前面に押し出した考えから、インディオの衣装に羽飾りの姿でステージに立つようになった。

マネージャーにのせられて、恥ずかしいパフォーマンスをやったとの説もあったが、伝記によればはっきりとした政治的なアピールのために行ったとされている。だとすれば、歴史的にみれば、先住民の人権拡張運動の最初の運動家ということになるかもしれない。

Nitsuga とはすなわち Agustin の逆綴りであり、Mangoré とはパラグアイにいた伝説の大酋長の名前のことである。

後述の伝記映画のなかのニツガ・マンゴレの演奏シーン。

旅先で散逸した作品も数知れず

バリオスは彼の母国や南米の一部の地域を除いては、全世界において長い間、正当に評価されていませんでした。

バリオスは死後しばらくの間は、世界に知られることもなく“忘れられた作曲家”の扱いになっていたようです。

バリオスさんはたいへんなお人好し&ボヘミアン気質だったそうで、楽譜も、書いた先から人にあげてしまっていたそうです。
そんなわけで、それぞれの曲にいろんなバージョンが存在するのです。

貧しくて流浪の演奏の旅をしては曲を売って生計を立てていたそうです。なのでのちに楽譜収集するのが大変だったそうです。

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