1. まとめトップ

この記事は私がまとめました

幕末、京都の治安を守っていた会津藩は、長州藩との死闘を繰り返し、維新後にその憎しみが集中したのです。しかし会津藩は官軍に恭順せず徹底抗戦の道を選らんだのです。

ezurerikiさん

会津戦争概要

1862年会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷派志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として尊皇攘夷派の排除を行った。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した容保は、新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも会津藩の恭順姿勢を信用してはいなかった。

慶応4年(1868年)3月11日、江戸城が無血開城され(江戸開城)、徳川慶喜が水戸で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。

奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では赦免嘆願を目的としていたが、会津藩が明治新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が仙台藩士によって殺害された事件から戦争に傾くことになる。

松平容保

松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末の大名。陸奥国会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主[注釈 1])。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B9%E4%BF%9D

世良修蔵

天保6年7月14日(1835年8月8日) - 慶応4年閏4月20日(1868年6月10日))は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。 閏4月20日(6月10日)未明、世良修蔵と報国隊の勝見善太郎は金澤屋で就寝中に、姉歯武之進、田辺覧吉、赤坂幸太夫、松川豊之進、末永縫殿之允、大槻定之進の仙台藩士6名、遠藤条之助、杉沢覚右衛門、鈴木六太郎の福島藩士3名、福島町の目明かし浅草屋宇一郎とその手先14~15名の合計24~25名に襲われた。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った[15]上で捕縛された世良は、同日朝、勝見と共に阿武隈川河原で斬首され、遺体は阿武隈川へ投げ捨てられた。

戦闘準備

会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に不利と見て従来から主張していた和議恭順を藩主・松平容保に勧めるが[6]、容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。 また、藩側に逃げてきた農民や町人らも、武器を渡され戦うことを命じられることとなった。

しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して苛酷な租税を課していたため、重税さらには戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く、逃走者が後を絶たなかった。意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える会津藩士とは対照的であった。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

西郷頼母

西郷 頼母(さいごう たのも、文政13年閏3月24日(1830年5月16日) - 明治36年(1903年)4月28日)は、江戸時代後期(幕末)の会津藩の家老。諱は近悳(ちかのり)。明治維新後は保科 頼母(ほしな たのも)と改名。頼母も白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃したが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥(白河口の戦い)したが、その後二ヶ月以上も白河口を死守する。7月2日に棚倉城陥落の責任を取らされて総督を解任される。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%A0%BC%E6%AF%8D

白河口の戦い

旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日 (旧暦)(1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日 (旧暦)(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日(6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。

二本松の戦い

慶応4年6月24日(1868年8月12日)に棚倉城が落城、7月16日(9月2日)に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、明治新政府軍はじりじりと北上した。7月29日(9月15日)、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

若松城下への侵攻

二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。

二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。慶応4年8月21日(1868年10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロメートル余りを急進して同年8月23日(1868年10月8日)朝に若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃する[7]などの悲話が後世に伝えられている。

板垣退助

天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に後藤象二郎、佐々木高行)。明治維新の元勲。自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。二本松藩・仙台藩・会津藩などを攻略するなどの軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。

若松城

若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。

地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%9F%8E

白虎隊

1 2