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19歳で下半身不随になった天才サッカー選手・羽中田昌さんの来歴・人物

19歳で下半身不随になった天才サッカー選手・羽中田昌さんの来歴・人物

更新日: 2019年01月14日

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かつて、日本にJリーグはおろか「プロのサッカー選手」という概念もなかった時代に海外挑戦を夢見ていたサッカー少年がいた。彼の名は羽中田昌(はちゅうだ・まさし)さん。19歳で下半身不随になった天才ドリブラーである。

孔明0530さん

羽中田昌

羽中田 昌(はちゅうだ まさし、1964年7月19日 - )は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者およびスポーツエッセイスト。JFA 公認S級コーチ(2006年取得)。

来歴

選手時代は切れ味鋭いドリブル突破が持ち味のフォワードとして少年時代から注目され、甲府市立春日小学校5年生の時に湯田少年団の一員として全国サッカー少年団大会(全日本少年サッカー大会の前身)に出場。翌年には春日少年団の一員として同大会に出場し2年連続で優秀選手に選ばれ全国的に名前が知れ渡るようになった。

中学は地元の甲府市立西中学校へ進学するが、全国中学校サッカー大会の予選を兼ねた最後の大会ではライバルの保坂孝が率いる韮崎市立韮崎東中学校に敗れ全国大会への出場は成らなかった。

高校は山梨県立韮崎高等学校へ進学。横森巧の指導の下で1年次からレギュラーとして第59回全国高等学校サッカー選手権大会でベスト4、2年次の第60回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝に貢献し優秀選手に選出された。この当時には一学年上の大柴剛、保坂孝と共にH2Oトリオとしてマスコミから注目された。

しかし、1982年3月、高校選抜のヨーロッパ遠征直前に腎臓病を患い選手キャリアの中断を余儀なくされた。3ヶ月の入院生活の後も運動を禁じられていたが、12月に医師から「1試合15分以上はプレーをしない」ことを条件に復帰が認められ、3年次の第61回全国高等学校サッカー選手権大会に出場。準決勝の守山高校戦と決勝の清水東高校戦で後半から交代出場し、鋭いドリブル突破でスタンドを沸かせた。

将来を嘱望されていたが、浪人中にバイク事故で脊髄損傷を負った結果、下半身不随となり、サッカー選手としてのキャリアに終止符を打った。

1986年から9年間山梨県庁に勤めるが、1993年のJリーグ開幕でかつて高校サッカーで戦った選手たちが脚光を浴びるのに触発され、サッカー指導者への道を志し、1995年にバルセロナに渡る。

2000年に帰国後は主にテレビのサッカー中継やスポーツ誌などで解説者として活動。BS朝日『SOCCER2002』の司会を務め、スカイパーフェクTV!のサッカー中継番組で主に海外サッカーの解説を担当する傍ら、暁星高校サッカー部のコーチとして指導に当たった。

2006年9月、日本サッカー協会・S級ライセンスを取得(身体障害者としては史上初)。2008年から2009年までカマタマーレ讃岐の監督を務めた。

2011年4月、山梨県韮崎市の「サッカーのまちづくりプロジェクト推進委員会」と単年度契約を結び、母校である韮崎高等学校サッカー部のコーチに就任した。

2012年1月、関西サッカーリーグ1部に所属する奈良クラブの監督に就任したが、第9節のディアブロッサ高田FC戦が行われた同年6月30日に成績不振を理由に辞意を表明。同年7月3日付けで辞任が発表された。

2015年、関東サッカーリーグ1部に所属する東京23フットボールクラブの監督に就任した。

2018年よりブリオベッカ浦安の監督に就任した が、同年9月に成績不振により監督を解任された。

人物

甲府市在住である羽中田が、越境通学(当時の甲府市は総合選抜制度であった)となる韮崎高校へ進学した理由は、ライバルの保坂孝から勧誘があったためである。保坂は大型FWとして羽中田と同様に嘱望され、高校進学の際には東京都の帝京高等学校から勧誘をうけていた。なお、保坂は羽中田が誘いを断れば帝京へ進学する予定だったという。

FCバルセロナのソシオ(会員)であり、また地元クラブのヴァンフォーレ甲府が解散の危機にあった際には「ヴァンフォーレ甲府の支援を求める会」の発起人にもなった。

漫画家の塀内夏子は、1983年の高校選手権決勝での羽中田のプレーをテレビで観戦し、自身の作品『オフサイド』の主人公・熊谷五郎のモデルにしたと語っている。

キャプテン翼の三杉淳のモデルである。

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