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1933年ドイツではヒトラーが政権を奪取しましたが、まだ敵対勢力は強く独裁は完成していなかったのです。しかしそんなとき共産主義者と思われる男が国会に放火した事件が起こりました。

ezurerikiさん

ドイツ国会議事堂放火事件概要

1933年1月30日、ヒトラー内閣が成立した。アドルフ・ヒトラーは 政権基盤を固めるために議会を解散。3月5日に総選挙を行うことを決めた。

2月27日の午後9時30分頃、議事堂のそばをとおりがかった帰宅途中の神学生がガラスの割れる音を聞いた。彼は火のついたものを持った人影を見て、警備を行っていた警官に急報した。警官は割れた窓とその奥の火を発見して呆然となったが、数分後に消防隊に通報した。消防車は10時少し前に到着したが火はすでにかなり燃え広がっていた[2]。

ナチ党の外国報道部長エルンスト・ハンフシュテングルは家政婦の悲鳴で火事に気付き、そのころヒトラーのパーティが開かれていたヨーゼフ・ゲッベルスのアパートに電話した。ハンフシュテングルが議事堂が燃えていることを話したとき、ゲッベルスは冗談だと相手にしなかった。しかしやがて議事堂の方角が炎で赤く染まり、ヒトラーは「コミュニスト(共産主義者)の仕業だ!」と叫んで現場に急行した[3]。

ヨーゼフ・ゲッベルス

1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツの文学者、小説家、政治家。

「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握と、政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。政権下では第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。

第二次世界大戦の敗戦の直前、ヒトラーの遺書(英語版)によってドイツ国首相に任命されるが、自らの意志でそれに背き、ヒトラーの後を追って家族とともに自殺した。

副首相パーペンも火事を知って現場に急行した。現場に到着したパーペンにゲーリングは「これは明らかに新政府に対する共産主義者の犯行だ」と叫んだという[4]。間もなく到着したヒトラーも、「これは天から送られた合図ですよ、副首相閣下!」「もしもこの火事が、私の考えている通りコミュニストの仕業だとしたら、我々はこの危険な害虫どもを鉄拳で叩きつぶさねばなりません!」[5]と語った。その後、ヒトラーは緊急対策会議の開催を告げたが、パーペンは大統領への報告を優先して断った。

フランツ・フォン・パーペン

1879年10月29日 - 1969年5月2日)は、ドイツの軍人、政治家、外交官。

ヴァイマル共和政末期の1932年にクルト・フォン・シュライヒャーに擁立されてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣の首相を務めたが、パーペン内閣は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した。その後、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーと接近し、彼が首相になれるよう尽力するなどナチ党の権力掌握に大きな役割を果たした。1933年のヒトラー内閣成立でヒトラーに次ぐ副首相の座に就いた。しかし「長いナイフの夜」事件で失脚し、その後はオーストリアやトルコでドイツ大使を務めた。第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で主要戦争犯罪人として起訴されたが、無罪とされた。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95

犯人の『逮捕』

現場を捜索したところ、焼け残った建物の陰でちぢこまっていた半裸の人物マリヌス・ファン・デア・ルッベが発見された。ルッベはオランダ人でオランダ共産党員であった。ルッベは放火の動機は「資本主義に対する抗議」と主張しており、プロイセン内務省のディールス政治警察部長も「一人の狂人の単独犯行」と推定した。ヒトラーは「共産主義者による反乱計画の一端」と見なし、「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。社会民主党員も同じだ!」と叫び、単独犯行であるとするディールスの意見を一蹴した[6]。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B

マリヌス・ファン・デア・ルッベ

逮捕されたマリヌス・ファン・デア・ルッベ

マリヌス・ファン・デア・ルッベ(Marinus van der Lubbe, 1909年1月13日 - 1934年1月10日)は、オランダの共産主義者。ドイツ国会議事堂放火事件の犯人として逮捕され処刑された。
ファン・デア・ルッベはオランダのライデンで生まれた。両親は離婚し、彼が12歳の時母親が死んだため彼は異父姉妹の家族と一緒に住むことを強いられた。少年時代、彼はレンガ工として働いた。彼はその腕っ節の強さから、プロボクサーのジャック・デンプシーに因んでデンプシーの愛称で呼ばれた。彼は職場で労働運動に加わることとなる。

1925年に彼はオランダ共産党(ドイツ語版)に加入する。しかし1926年、彼は作業中にセメントの粉が目に入り、数カ月間入院するがほとんど盲目となってしまい、退職を余儀なくされる。彼は失業者として1週当たり7.44ギルダーを受け取って暮らし、その後はアルバイト生活を強いられた。

その日のうちにプロイセン州警察は共産党議員や公務員の逮捕命令を出した。共産党系の新聞はすべて発行禁止となった。その後、共産党議員団長であるエルンスト・トルクラー(ドイツ語版)や後にコミンテルン書記長を務めるゲオルギ・ディミトロフ、ディミトロフと同じブルガリア人の共産主義者であるブラゴイ・ポポフ(ブルガリア語版)とヴァシリ・テネフ(ブルガリア語版)の4名が共犯として逮捕された。

ゲオルギ・ディミトロフ

Георги Димитров、1882年6月18日 - 1949年7月2日)は、ブルガリアの政治家。ブルガリア人民共和国の閣僚評議会議長(首相格)、コミンテルン書記長、ブルガリア共産党書記長を務めた。1923年、ブルガリアの9月蜂起の指導に参加したが失敗し、国外亡命。欠席裁判で死刑判決を受ける。

亡命中、ブルガリア共産党中央委員会国外事務局委員として活動したが、1933年、ベルリンで発生したドイツ国会議事堂放火事件に関与した容疑で逮捕される。裁判で検察を論破し、翌年、無罪釈放された。1935年、コミンテルン書記長となる(43年まで)。1935年、コミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線戦術を提起し、採択された。しかしその後、独ソ不可侵条約締結により、スターリンの指示で反ファシズム統一戦線戦術は棚上げされた。

1945年、第二次世界大戦終結後、ブルガリアに帰国し首相となったが、1949年、療養先のモスクワ近郊で死去した。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%

事件の政治利用

2月28日、ヒトラーは閣議にコミュニストと「法的考慮に左右されず決着をつける」ためとして[8]、 「国民と国家の保護のための大統領令(ドイツ語版)」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令 (Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe」の二つの緊急大統領令の発布を提議した。パーペンが「バイエルン州で反発を受けるかもしれない」と意見を述べたのみで、ほとんど修正される事無く閣議決定された。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%

共産主義者の襲撃が起きるというデマが流され、共産党や民主主義政党の集会はナチス党の突撃隊に襲われ、共産党の指導者を含めた逮捕者や死者も続出した。選挙期間中に死亡したナチス党員は18人、その他の政党の死者は51人、負傷者は数百人にのぼった。

選挙の結果、100議席を持っていた共産党は81議席へと後退した。一方ナチス党は199議席から288議席へと躍進したが、全体の647議席の過半数獲得には至らなかった。
出席した社会民主党議員は全員が反対したものの、ナチス党はドイツ国家人民党と中央党の協力を得て3分の2の賛成を確保し、全権委任法を成立させた

突撃隊

突撃隊(とつげきたい、独: Sturmabteilung, 略号:SA)は、国家社会主義ドイツ労働者党の準軍事組織。制服の色から「褐色シャツ隊(Braunhemden)」とも呼ばれた[2]。

全権委任法

全権委任法(ぜんけんいにんほう、正式名称:独: Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich)、日本語訳では民族および国家の危難を除去するための法律(みんぞくおよびこっかのきなんをじょきょするためのほうりつ)、または、国民および国家の苦境除去のための法[1](こくみんおよびこっかのくきょうじょきょのためのほう)は、ヴァイマル共和政下のドイツ国において1933年3月23日に制定された法律。

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)による事実上の一党独裁制の下、アドルフ・ヒトラー首相が率いる政府に、ヴァイマル憲法に拘束されない無制限の立法権を授権した[2]。この法律は立法府が行政府に立法権を含む一定の権利を認める授権法の一種であり、単に「授権法」と呼ぶこともある[3][4][* 1]。

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