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【みんな大好き!】ラーメン界の栄枯盛衰

ラーメンが国民食と言われて久しいですが、国民食であるからこそ下克上が当然の業界です。お店、または味の盛衰を決めるのはメディアの力が大きいですが、その波に乗れた人と乗り損ねた人、もしくは掴み損ねた人などいろいろな人がいます。ラーメン界を振り返ってみます。

更新日: 2019年02月08日

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この記事は私がまとめました

ラーメンが国民食と言われて久しいですが、国民食であるからこそ下克上が当然の業界です。お店、または味の盛衰を決めるのはメディアの力が大きいですが、その波に乗れた人と乗り損ねた人、もしくは掴み損ねた人などいろいろな人がいます。ラーメン界を振り返ってみます。

m.satoakiさん

私は約30年前に脱サラでラーメン店を開業し、地元密着のお店として約14年間営業していました。私のような個人店とは違い、規模の大きいチェーン店として成功するのは簡単なことではありません。業界の内側にいた人間から見ていますと、成功の可否を握るのはマスコミ・メディアの影響力が大きいように思っていました。

マスコミ・メディアに取り上げられますと一時期はブームになり繁盛しますが、それを継続させるのは大変です。もちろん努力や工夫は必要ですし、運も関係してきます。どちらにしましても、ブームを掴まえ切れた人だけが成功の切符を手に入れることができます。

そうしたラーメン界の栄枯盛衰をまとめました。

〇「成功」の筆頭に上がるのは「一風堂」でしょう

テレビ東京「「TVチャンピオン~ラーメン職人選手権」でチャンピオンになったのが大きなきっかけですが、それを生かす才能があったことが大きな勝因です。

また個人経営を法人経営に転換する際に失敗する人が多いのですが、それをも乗り越えて今の成功があります。つまり、経営才覚もあったことになります。

ただし、最近は壁に当たっているそうです。まとめの最後に紹介しています。

1985年に河原成美(かわはら しげみ)が創業。「怖い・臭い・汚い」と言われていた1980年代の博多ラーメンのイメージを覆し、女性が単独でも入りやすいスタイリッシュで清潔な店舗と、豚骨特有の臭みを排しながらも濃厚な深みのあるスープや研究を重ねた自家製麺が特徴である。

1994年3月に世界初のフードテーマパーク「新横浜ラーメン博物館」に関東第一号店として出店して一気に全国区となり、翌1995年には東京都渋谷区広尾に東京1号店となる恵比寿店をオープンさせ、二大看板メニューとして「白丸元味」と「赤丸新味」を発売。

1997年には河原成美がテレビ東京「TVチャンピオン~ラーメン職人選手権」でチャンピオンに輝き、1999年の「史上最強!ラーメン王決定戦II」、2000年の「大行列!ラーメン職人選手権」で3連覇を達成し、殿堂入りを果たした。

〇現在注目されているのは「ラーメン二郎」でしょうか

「ラーメン二郎」さんは最初は個人で始めているようですが、どこかでコンサルタントがサポートしている印象を受けます。

本なども出版されていますし、メディアで取り上げられることも多いのが特徴です。

「ラーメン二郎」さんの魅力の一つは量が多いことですが、この魅力は有名ラーメンの先輩である「永福町の大勝軒」さんと同じです。ご存知の方も多いでしょうが、「永福町の大勝軒」は行列のできるラーメン屋さんとして30年以上前から有名でした。

創業は1968年(昭和43年)で、東京都目黒区の都立大学駅近くに当初「ラーメン次郎」の名前で開店した。これは開店前年の1967年1月にエースコックから発売されて人気となっていたインスタントラーメン、「ラーメン太郎」にちなんでいる。

1980年代や1990年代にも書籍に取り上げられている。1986年4月発売の山本益博『東京味のグランプリ〈1986〉』で山本は飲食店を星の数で評価した際、ラーメン二郎は無星の評価だった。1986年発売の『週刊少年マガジン』50号掲載の『ミスター味っ子』「焦がしネギの風味」の扉絵でぶたダブルが描かれており、慶應大学出身者である作者の寺沢大介が「ラーメンの帝王」というフレーズを使った紹介文を添えている。1996年4月20日発売の『島耕作の優雅な1日』では、作者の弘兼憲史がラーメン二郎について取材した内容をイラスト入りでレポートしていた。

日本を代表する美味しいラーメン屋といえば「ラーメン二郎」だ。デカ盛りラーメンとして有名だが、しっかりと手間ひまかけた麺とスープは絶品で、濃厚で豪快なチャーシュー(豚)には多くのファンがいる。一度食べたらヤミツキになり、週に1回は食べないと発作が起きると言ってる人もいるほどだ。

まとめ者注:経営手法に賛否両論があるようです。

〇チェーン店の先駆けは「どさん子」です。

知る人ぞ知るラーメン界の草分け的存在です。私は60才を越えていますが、私の年代でラーメンチェーンと言いますと「どさん子」という方は多いはずです。

実は、いい悪いは別にして、フランチャイズ方式を取り入れた企業の草分けでもあります。セブンイレブンが登場する前にすでにフランチャイズ方式で店舗を拡張していました。

*注:「どさん娘」というブランドもあり、こちらも「どさんこ」と呼んでいましたが、裁判を経て「どさんこ」とは呼べなくなっています。現在はほとんど見かけなくなっています。

昭和三十六年の創業以来、伝統あるラーメンチェーンとして、
日本全国のお客様に味噌ラーメンを提供させて頂いてきました。
まったりとしたコクと深みのある秘伝のスープは、どこか懐かしさのある味わいです。

=====ここから先は「枯」または「衰」した企業です。

〇ラーメン界のイチロー

誰が名付けたか「ラーメン界のイチロー」の愛称でテレビ画面に登場したその人は、予選~決戦と勝ち進んで厳寒の北海道で『テレビチャンピオン ラーメン職人選手権』のタイトルを獲得した。そして、見事4人目のラーメンチャンピオンとなる。

1996年、東京・護国寺に「柳麺ちゃぶ屋」を開店し、2002年にはテレビ東京系『TVチャンピオン』新行列店ラーメン選手権で優勝すると、従来のラーメン店のイメージを脱却した新店舗「MIST」を東京・表参道ヒルズと香港にオープン。2010年12月には「2011年版 ミシュランガイド香港・マカオ」で星1つを獲得して、ラーメン職人として初のミシュランとして話題を呼んだ。

2012-04-24
「ラーメン界のイチロー」の異名をとる森住康二氏(45)が手がける有名ラーメン店『ちゃぶ屋』などを経営するCHABUYA JAPANが破産したことが24日、わかった。森住氏が同日付の自身のブログで破産により「ちゃぶ屋の営業を再開することができなくなりました」と報告している。

森住氏は「債務を返済するために新たに融資を受けるつもりだったんですが、株主が変わったことで断られてしまったんです。そのため事業再生を図るために自己破産させていただきました。もう一度、ラーメンで立て直して、何とか債権者に恩返しをしたい」と説明している。

⇒ 2017年7月にこんな記事もありました。

日本のテレビで「ラーメン界のイチロー」と称されたこともある森住康二氏のラーメン店「もりずみ」が18日、「MORIZUMI森住康二拉麺」として、台北市のデパート・太平洋そごう忠孝店に台湾1号店を開設する。

〇 なんでんかんでんフーズ

1987年7月8日、川原ひろし(川原浩史)が、東京都世田谷区羽根木の環状7号線沿いに豚骨ラーメン店「なんでんかんでん」を開店した。店名は、元々博多弁で「なんでもかんでも」という意味で、開店時に店名をどうするか同級生に相談したところ「そげな名前なんて、なんでんかんでんよかろうもん」と返答されたことに由来する。
本場・博多の濃厚な豚骨ラーメンを出す店として繁盛し、東京に豚骨ラーメンを根付かせ、ラーメンブームの一端を担った店として知られていた。

店舗だけでなく川原自身も、2001年に放送が開始されたテレビのバラエティ番組『マネーの虎』(日本テレビ系列)に投資家として出演したことがきっかけでブレイク、独特のキャラクターで多くのテレビ出演をこなすなど、タレント活動も平行して行った。

敗因:時代の変化についていけなかった

2012年、環七本店は26年の幕を閉じ、残りの店も昨年ですべて閉じたと話す。川原氏が抱えた借金は最高時5億円とも報じられた。

一言で言うと「時代が変わった」んですね。夜間の車相手の場所が時代にそぐわなくなったんですね。オープンした29年前は、車に乗っていた若者は深夜も活発に動きまくっていました。景気も良かったし、場所柄、車でしか来れません。10年ほど前から飲酒や駐車の取り締まりが厳しくなって、だんだん深夜の車が減っていって、深夜出歩かなくなったんですね。

路上駐車も凄く“なんでんかんでん渋滞”と言われました。騒音、においの問題もあって、毎晩50回を超える110番がありました。警察は取り締まりを強化、半年間に渡って営業時間中、店前にパトカーを常駐させました。その間の売り上げは10分の1以下にまで落ち込みました。

〇 びっくりラーメン一番

なんと一杯180円で販売していました。残念ながら2007年に吉野家の傘下に入りますが、一時期は栄華を誇っていました。

最盛期には全国200店舗!
「びっくりラーメン」は1997年11月、ラーメン一番本部(大阪市)によってスタートした。2006年4月14日の日経MJ(日経流通新聞)によると、ラーメン1杯の原価は45円前後。知人のスナックを改装した1号店から、わずか8年半で全国194店舗(06年4月中旬時点)を展開し、中国・青島にまで進出したという。

しかし、栄華は長く続かない。同社は07年8月、民事再生法の適用を申請。吉野家HD子会社のアール・ワンのもとで再起を図ったが、09年6月にラーメン事業からの撤退を余儀なくされた。

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