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大正時代の恐ろしい殺人事件10選

大正時代に起きた身の毛もよだつ殺人事件10件をまとめました。

更新日: 2019年06月18日

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romonさん

犯人の岩淵熊次郎は千葉県久賀村で荷馬車引きとして生計を立て、妻と5人の子供と暮らしていた。岩淵は仲間に酒などを奢ったり、高齢者や非力な村人の仕事を手伝ったりなどしていたため、村人の間では信頼されていた。一方で女癖が悪いことでも有名であり、以前から女性関係でトラブルになっていた。

1926年、岩淵は親しかった小間物屋の女性・けいが他の情夫と交際していたことを知り殺害。けいと交際していた情夫とけいの働いていた小間物屋の店主も殺害し、駆けつけた警官に重傷を負わせ山中に逃亡した。

岩淵は「鬼熊」と呼ばれ、警察官、消防団、青年団など計5万人を動員し山狩りを行った。しかし、過去に岩淵に世話になり事情を知っていた村人たちは、岩淵をかくまったり嘘の情報を流すなど捜査を長引かせた。

岩淵は先祖代々の墓所に逃げ込み、恨みはすべて晴らしたとして、取材に来ていた新聞記者や知人の前で村人の用意した毒入りの最中を食べ、剃刀で喉を切って自殺した。

京都府京都市に平松小笛という47歳の女が住んでいた。小笛は、17歳になる養女のAと2人で、京都帝国大学からほど近い長屋に暮らしていた。その一方で小笛には信託会社に勤務する広川条太郎という当時27歳の愛人がいた。

小笛は数年前まで下宿屋を営んでおり、京大生であった広川はそこに下宿するうち、小笛と関係を持つようになった。やがて小笛は経営難から下宿屋を畳むなど困窮するようになったが、一方で広川も、大学卒業後も小笛との愛人関係を清算できないままでいた。

加えて同時期には、広川は小笛のみならず娘のAとも関係を持つようになっており、これに対し小笛は広川にAと結婚するよう迫った。しかし広川には結婚の意志など毛頭なく、小笛に金を支払って済ますのみであった。

経済的に行き詰まり、頼れる係累もなく、さらにはAが心臓弁膜症で長くは生きられないとの診断も受けたため、追い詰められた小笛は周囲に心中の意志を漏らすようになっていた。

1926年、平松小笛の自宅で、小笛とその娘、そして小笛が預かっていた知人の娘2人が死亡しているのが発見された。現場の様子は小笛が3人を巻き込んで心中を遂げたもののように思われたが、小笛の遺体には索溝が2条あるなど、他殺を疑わせる所見もあった。

小笛の死因が自殺を偽装した他殺とされたため、当局は小笛の愛人であった広川条太郎を検挙した。5人の鑑定人は小笛の死因について自殺説と他殺説の2派に分裂した。最終的に無罪判決を広川に言い渡し、事件は終結した。

本事件より2年前の大正9年、ロシア沿海州の都市・ニコラエフスクがパルチザンの襲撃を受け、多数の市民が虐殺される。いわゆる尼港事件である。この事件では多数の婦女子を含む在留日本人700人が巻き込まれて全滅したうえ、女性への残虐な殺害方法がセンセーショナルに報道されたため、当時の日本社会は反露感情に沸き立った。

首謀者・江連(えづれ)力一郎(当時34歳)は陸軍軍曹である。彼は柔道、剣道、合気道など各武術をきわめた猛者で、段位は合計で30段に達していたという。そんな彼は尼港での惨劇に悲憤慷慨し、復讐を決意。軍部や実業家から潤沢な資金を回収し、決行の機会をうかがっていた。

1922年、船<大輝丸>を用意した彼は「オホーツク海に砂金採取に行く」と称して乗組員を募集。その呼びかけに人夫、失業者、学生など60人が集まった。北海道・小樽を出航してから本来の目的を乗組員に説明し、ニコラエフスクへ向かうこととなった。

ニコラエフスクの沖合でロシア船を略奪。ロシア人船員たちの命乞いを聞き入れることもなくピストルと日本刀を使い分けて殺害。小樽に帰港したのち、厳重な口止めを約束させて解散した。

事件後、乗組員の一部が罪の意識に耐えかねて自首したことにより事件が発覚。逮捕された江連は「尼港事件で殺害された日本人の霊をなぐさめるため、天にかわって正義の剣をとり、懲罰をこころみた」と弁明した。江連は懲役12年の刑に処せられた。

1922年、信越電力株式会社は信濃川の支流である中津川にて中津川第一発電所ほか水力発電所の建設を始めた。この工事は大倉組が担当した。

集められた土工は約1,000人で、タコ部屋労働と呼ばれる労働者を共同生活させる形で、人海戦術で行う形で工事がなされた。また、工事の監督者らは「勤務態度が怠惰だ」などとして、彼ら土工たちに暴力を振るったとされる。

逃亡を試みた十数人の労働者たちが、信濃川発電所工事所で、大倉組の監督者らにより殺害されて信濃川に投げ込まれたとされる。信濃川の上流から労働者らの死体が流れてきたため、東京の読売新聞が日時は不明だが『身元不明』の数体の死体が上流から流れてきたとの内容の記事で報道した。

1915年、山口県豊浦郡の水田で炭焼き人夫の男性(当時50歳)が刃物で全身を切り付けられ死亡しているのが発見された。男性には博打で勝った金を溜め込んでいるという評判があり、自宅には荒らされた跡があった。

警察は金銭目当てもしくは賭博上の怨恨理由とみて捜査を開始し、事件当夜に被害者と喧嘩をしていたとの目撃証言があり、負債もあった馬車引きの男X(当時34歳)を逮捕した。

Xは自分は従犯であり、主犯は同村の農民で窃盗の前科がある加藤新一(当時24歳)であると供述。加藤は逮捕されたが、両人差し指と腰の骨を折られるなどの拷問を受けながらも一貫して容疑を否認。鑑定で人血が附着しているとされた父親の着衣と藁切り刀を物証としてXとともに起訴された。

2人に無期懲役の判決が下った。Xは1918年に刑務所で獄死。加藤は模範囚として久留米少年刑務所で職業訓練を指導し、服役から14年後の1930年に仮出所した。

その後、加藤は5度にわたる再審請求を行ったが、全て棄却された。1975年、物証の再鑑定と精神鑑定の結果を踏まえ再審を開始。1977年、共犯者の供述は信用し得ず全ての物証に証拠価値はない、として加藤に無罪を言い渡した。事件発生から62年後の無罪判決は日本の司法史上最長である。

1915年、鈴ヶ森刑場跡の砂風呂旅館の娘、おはる(当時26歳)が他殺体となって発見された。直接の死因は窒息死だが、死後、頭部や腹部を鋭利な刃物で滅多切りにされていた。

警察は殺害の動機を痴情のもつれと判断。おはるには大勢の愛人がいたが、愛人のひとりであったK(当時36歳)が逮捕された。最近になって被害者の側から別れ話を切り出され、悶着の末、40円の手切れ金を取って別れていた。しかしまだ未練が残っており、折を見てよりを戻そうと考えていた。

捜査員の厳しい追及に耐えかねてKは犯行を認めた。しかし、別件の強盗殺人で逮捕された前科五犯の石井藤吉(44歳)が、鈴ヶ森おはる事件も自分がやったと言い出したことで、様相は一変した。

石井の自白によると、盗みに入る家を物色しながら歩いている途中、目の前をおはるが一人で通り過ぎた。石井は襲いかかったものの、被害者に騒がれたことから絞殺したという。石井の供述により物証も得られたことから、Kは釈放され、石井が真犯人として起訴された。

「鈴ヶ森事件の犯人が逮捕され、いずれ死刑になることを知った。私が黙っていれば無罪の人間が死刑となってしまっては可哀想だ。数え切れないほどの罪を犯してきたが良心はある」(石井の証言より)。石井は死刑判決が言い渡された。Kは全ての疑いが晴れ、改めて無罪判決が言い渡された。

1915年、東京市本所区の自転車商Y(当時34歳)と妻M(同28歳)、長女(同4歳)、次女(同2歳)の一家4名が惨殺され、金品が奪われた。被害者はげんのうの様なものでめった打ちにされ、現場は血の海になっていた。

警察はYと取引のあった行商の男性H(当時26歳)が犯行を自白したとして起訴し、Hに死刑を言い渡した。

ところが、控訴審において驚くべき真実が判明した。Hは事件とは全く無関係であり、自供したのは、留置場で同房のものから「警察が言うとおり自供すれば痛い目に遭わなくてすむ、真実は裁判で言えばいいのだ」とそそのかされたからだという。

そして、ニセの自供をそそのかしたのは警察から送り込まれた密偵であった。こうして警察の悪事は露呈し、新聞は警察を激しく糾弾することとなった。東京控訴院はHに無罪を言い渡した。こうして捜査は振り出しに戻った。

事件から5年後、窃盗で逮捕された男性A(逮捕時20歳)が自転車商一家殺害を自白した。被害者Mの指輪をAの母親が所持していたことがわかり、Aが真犯人と判明した。Aは金銭問題でYを恨んでおり、一家を薪割りで殺害したうえで金品を奪ったのであった。Aは死刑判決を受け、執行された。

1914年、新潟県中蒲原郡の農家で、一家の父(当時50歳)が納屋で撲殺されているのを、養女(当時14歳)が発見した。

屋外に積もった雪には外部からの侵入の跡がなかったこと、血の付いた服が屋根裏に隠されていたことなどから、通報を受けた当局は家族による犯行と断定し、同日中に被害者の長男(当時23歳)、次男(当時19歳)、妻(当時45歳)、義母(被害者妻の養母。当時68歳)の4人を検挙した。

次男は父の殺害を自白した。次男の自白によると、父は働きもせず酒を飲み、借金を作るばかりか生命保険にも加入していたので、4人で父の殺害を計画したという。しかし、他の3人はそのような共犯関係を否認し、次男も直後には自白を撤回した(実際の父は働き者だったという)。

今度は長男が、他の3人は事件に無関係であり、父は自分1人で殺害したとの自白を行った。自白によると、長男は遊女を買う金欲しさに家の米を盗んで売ろうとしたが、納屋へ忍び込んだところへ父が現われたため、咄嗟に杵で滅多打ちにして撲殺したという。だが、やはり長男もほどなく自白を撤回した。

次男は、取調べ中も母や祖母が拷問を受けて泣いているのが聞こえ、それに耐えられず自白した、と主張した。長男は、監獄の外に残された幼い弟妹を気にかけ、加えて70歳近い祖母が獄死するのではないかと恐れて、自分一人で罪を被ろうとしたのである、と主張した。

一審では一家4人による共犯として、全員に死刑判決が下された。しかし、控訴審では一転して長男による単独犯と認定され、他の3人の判決は無罪へと覆った。1人死刑を維持された長男は、事件は外部犯によるものとして大審院へ上告するも棄却され、その後も冤罪を訴え続けたが処刑された。

(年齢については諸説あり)

1913年、東京府南葛飾郡の小間物商の自宅で、妻が目を覚ましたところ、裏口をこじ開けて強盗が侵入しようとしている様子を認め、仰天した亭主は表口より駆け出して亀戸天神橋派出所に急報した。

立番中の巡査(当時30歳)が出動したが、裏口に回ろうと路地に入った途端に、異様な閃光とともにうめき声を立てて倒れてしまった。これに驚いて駆け寄った亭主および義父も相次いで倒れたことから、妻が近所の住人とともに恐る恐る近づいてみたところ、3人が倒れている下に2本の電線が敷かれているのを発見した。

感電と知った人々は竹竿で電線を押しのけて3人を救出し、駆けつけた医師が応急処置を加えたものの、巡査は額に9センチほどの熱傷を受けて、多量の鼻血を出して即死状態であった。亭主は腰に熱傷を負って重傷、義父も右手指に熱傷を負っていた。電線は何者かが仕掛けた罠だった。

遺留品などから男(当時20歳)が被疑者として逮捕された。逮捕後の追及により、葛飾の件を含む複数の窃盗事件および電殺事件について犯行を自白した。電気技術は、以前に電燈工事会社の雑役をしているときに覚えたものであった。電気を犯罪の道具にするという悪質性から、犯人には死刑が言い渡された。

1913年に発覚した、愛知県愛知郡在住の坂倉しげ(45歳)を主犯とする大量殺人事件である。

主犯のしげは、伊勢藤堂藩士の娘として生まれた。結婚して坂倉家の女となった。1898年より私生児を40 - 50円の養育費と共に引取り、その私生児を次々と殺害していった。1913年には既に200人ほど殺害していた。

犯行の足がつかないように2、3人殺すごとに引越しを繰り返していた。共犯者の沖つた(45歳)と猪飼なか(62歳)は浮気相手を連れ込むための隠れ家で貰い子を殺害した。

子供を40円で預けたある芸妓は、子供の顔を見ようと何度もしげのもとを訪れたが会えず。不審に思い警察に相談。3人は警察に逮捕された。1915年に3人の死刑が執行された。

・文はwikipediaからの引用です。
・画像はイメージです。

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