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「人間機関車」と呼ばれた日本社会党委員長の浅沼稲次郎は、精力的な政治活動をしていましたが、右翼に狙われついに暗殺されてしまったのです。

ezurerikiさん

事件の概要

この日、日比谷公会堂では近く解散・総選挙が行われる情勢で、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」(東京選挙管理委員会・公明選挙連盟<現・(公財)明るい選挙推進協会>、NHK・日本放送協会が主催)が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、西尾末広民社党委員長、浅沼社会党委員長、池田勇人自民党総裁の順で登壇し演説することになっていた。

浅沼委員長は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼委員長が演説を始めた後右翼団体の野次が激しくなり、ビラを撒く者も出たので、司会を務めるNHKの小林利光アナウンサーが「会場が騒々しくなってきまして、お話を聞きたいという方の耳に届かないと思います。最前列には新聞など報道機関の方が取材に訪れていますが、取材の余地がないほど騒々しいですので、ご静粛願います」と自制を求めると、場内には拍手が起き、一瞬野次が止まった。それを見計らって浅沼委員長は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E6%B2%BC%E7%A8%B2%E6%AC%A

浅沼委員長が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると……」と言いかけた午後3時5分頃、山口が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの銃剣で浅沼委員長の胸を2度突き刺した。浅沼委員長はよろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。秘書官は浅沼委員長の体を見回し、出血がなかったことから安心したが、それは巨漢ゆえに傷口が脂肪で塞がれたために外出血が見られなかっただけのことであり、実際には一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断されていた。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。側近によれば、浅沼委員長は運ばれる途中踊り場で絶命したという。この殺害行為の発生により、演説会はそのまま打ち切られた[1]。

浅沼稲次郎

浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年(明治31年)12月27日 - 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本の政治家。東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任。

巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「演説百姓[注釈 1][1][2]」「人間機関車」の異名を取り、また「ヌマさん」の愛称で親しまれた。しかし1960年10月12日に日比谷公会堂で開催された3党首立会演説会で演説中に17歳の右翼少年に刺殺されるという事件(浅沼稲次郎暗殺事件)により、非業の死を遂げた。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E6%B2%BC%E7%A8%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E

池田勇人

池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚、全日本居合道連盟創立者と初代会長。位階は正二位。勲等は大勲位。

大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。

山口二矢の逮捕

山口はその場で現行犯逮捕、取調べに対し山口は若年ながら理路整然と受け答えしていたという。11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた[2]「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)の文字を監房の壁に残した後自殺した。また、この事件で警視庁は山口のほかに「全アジア反共青年連盟」責任者・吉松法俊(当時32歳)を恐喝、右翼団体「防共挺身隊」の福田進隊長(同・32歳)を公正証書原本不実記載および強要、また大日本愛国党の赤尾敏総裁(同・61歳)を威力業務妨害容疑で、それぞれ逮捕した

山口二矢

事件を描いた「テロルの決算」

山口 二矢(やまぐち おとや、1943年(昭和18年)2月22日 - 1960年(昭和35年)11月2日)は、日本の右翼活動家、民族主義者および反共主義者で、1960年(昭和35年)10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯である。

1960年(昭和35年)10月、政党代表放送で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎を銃剣で殺害した。逮捕後、「後悔はしていないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所内で「天皇陛下万才、七生報国」との遺書を残して首吊り自殺した。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%BA%8C%E7%9F%A2

銃剣

銃剣(じゅうけん)は、銃の先端部に装着して、槍のような戦い方ができるように工夫された武器のことである。現代では短剣に着剣装置をつけたものが一般的だが、歴史上では刺突に特化した針(スパイク)状のものも多い。

銃剣を装着できる小銃のことを「銃剣銃」と称することがある。また、歴史的には、江戸末期から昭和初期頃までは着剣状態の小銃を「剣付き鉄砲(けんつきでっぽう)」とも言った。

大日本愛国党

大日本愛国党(だいにっぽんあいこくとう)は、日本の政治団体。反共主義、愛国主義、日の丸革新主義を掲げる。党の初代総裁は赤尾敏。GHQによる公職追放解除直後の昭和26年(1951年)に赤尾が結成。

各種選挙に積極的に候補者を立て、全て落選しているが、これは数寄屋橋で毎日行っていた街頭演説を公職選挙法の規定で途切れさせたくないという理由からだった。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%84%9B%E5%9B%BD%E5%85%9A

赤尾敏

赤尾 敏(あかお びん、1899年(明治32年)1月15日 - 1990年(平成2年)2月6日)は、日本の保守政治家、右翼活動家、衆議院議員、大日本愛国党初代総裁。

当初は社会主義者であったが、社会主義者として活動した後、1926年(昭和元年)に「天皇制社会主義」を理想として民族主義者に転向。1942年(昭和17年)には衆議院議員に当選した。1945年(昭和20年)の敗戦後、政治活動と講演活動を行い、1951年(昭和26年)親米反共を訴える大日本愛国党を創党した。特に銀座数寄屋橋などでの辻説法による過激な街頭演説で有名であった。

少年鑑別所

少年鑑別所(しょうねんかんべつしょ)は、少年鑑別所法によって設置されている、少年の収容施設である。主に家庭裁判所の観護措置決定により送致された少年を収容し、医学、心理学、社会学、教育学等の専門知識に基づいて、資質及び環境の調査を行う。鑑別所(かんべつしょ)とも言う。少年鑑別所は、少年鑑別所法に基づき設置された、法務大臣(法務省矯正局)の所管に属する施設であり、後述の一覧に記載した日本全国の52箇所(分所1箇所を含む)に設置されている。少年鑑別所が行う事務は、次に掲げるものである(少年鑑別所法3条)。

鑑別対象者の鑑別を行うこと。
観護の措置(少年法17条1項2号)が執られて少年鑑別所に収容される者その他法令の規定により少年鑑別所に収容すべきこととされる者及び収容することができることとされる者を収容し、これらの者に対し必要な観護処遇を行うこと。
少年鑑別所法の定めるところにより、非行及び犯罪の防止に関する援助を行うこと。

事件と報道

この立会演説会には、上記に説明したとおり、NHKが共催として参画しており、NHKのラジオ第1放送で生中継されていた。そのため、事件の一部始終はラジオを通じてそのまま同時に日本全国へ放送された。また日本シリーズ第2戦(大洋×大毎戦、川崎球場)中継のため15時45分からの録画中継を予定していたNHK総合テレビも、15時13分に野球中継を急遽中断してテロップ速報を出し、15時21分には事件の生々しい様子を収めた映像を放送した。さらに日本シリーズ試合終了後の15時43分には、臨時ニュースで浅沼委員長の死亡が報道された。

その後も犯行の瞬間を捉えた映像が何度も放送された。犯行場面の放送については賛否両論が相次いだ。当時のNHKの佐野弘吉報道局長の話によると、報道映像としての意味を重視して放送に踏み切ったことを語った。この日NHKと民放各局は、通常の番組を変更して報道特別番組を編成した。

出典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E6%B2%BC%E7%A8%B2%E6%AC%A1%E9

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