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日本国有鉄道史 気動車の発展と開発 一般用気動車と通勤用気動車 第9話

気動車発達史として、今回は昭和32年に製造が開始されたキハ20から、キハ35まで一気に紹介したいと思います。右画像のキハ35-900台は日本初のステンレス気動車でしたが、量産に至ることはなく、晩年は塗装されるなど省力化とは真逆の方向に進んでいました。

更新日: 2019年04月14日

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この記事は私がまとめました

鉄道ジャーナリスト【日本国有鉄道研究家】の加藤好啓です。今回は、一般気動車の発展と言うことでキハ20から通勤型のキハ35までを取り上げてみたいと思います。

blackcat_katさん

液体式気動車の系譜

戦後の液体式気動車(昭和35年頃までは液圧式)は、キハ44500(称号改正後はキハ15)からスタートしました。
液体式気動車の歴史を簡単に振り返ってみますと、上記のキハ44500試作車を経て、昭和29年から量産型と言える、キハ45000(後のキハ17)が製造され、派生して2エンジン車仕様のキハ44600(後のキハ50試作車を経て)キハ44700(後のキハ51)が誕生、その後、準急用としてキハ44800(後のキハ55)が誕生します。
キハ55が誕生して、初めて、優等列車用気動車が誕生し、キハ17は、一般気動車という分類になりました。

液体式気動車の試作車で、川越線などで試用された、1957年4月の形式称号改正でキハ15形1 - 4となったが、同年から郵便荷物(合造)気動車への改造が始まり、1960年までに全車が改造された。結果、液体式に改造された旧キハ44000形と実質統合の形となり、キハユニ15形16 - 19となった。

キハ44500を改良して製作されたキハ45000、貫通式として分割併合を容易にしたほか、エンジンの排気管を床下から、天井に抜けるようにしたことで、室内に排気臭が入理に食いように改良された。中心付近の窓間隔が広いのは、排気管を通してあるため。

キハ44600(キハ50】の改良版として量産された、総数20両が製造され、多度津工場で1965年に4両がキニ55に改造されました。
改造後は水戸機関区に配置され、常磐線の荷物列車として使用され、廃車となったのは昭和59年でした。

10系気動車の手法を用いて軽量化を図った車両で、気動車としては初めて2.8mの車体幅をとなった車両で、準急用として日光線に投入されました。
試作車は、キハ17の窓ガラスを流用したため窓が車体に対して小さめですが、量産車からは修正されてバランスご取れるようになりました。

一般型気動車の誕生

その後昭和32年にキハ55の成果を活かして、キハ17のボディサイズを一般客車並みに拡張したキハ25(両運転台はキハ20、北海道仕様はキハ20の北海道仕様で、窓は二重になったものの、後に量産されるキハ22のようにデッキがなく極めて不評でした)形が量産されることになりました。
初期のキハ20系列は、キハ55の初期型と同様、窓上部がHゴムの明かり取り窓としたタイプでしたが、翌昭和33年(1958)の増備車からは、2段上昇式窓に変更されました。
なお、初期のキハ20は、キハ17と同じエンジン・並びに台車でした、なおキハ20の初期車もその後台車をDT22A・TR51(国鉄形気動車の標準台車)に交換されています。
また、蛍光灯がまだ発展途上の時期であり、本格的な蛍光灯を採用したのは、昭和38年増備車からであり、それまではキハ17と同様の白熱灯でしたが、その後サークライン式の蛍光灯に変更されています。
キハ20形は昭和41年まで製造されることになり、国鉄における標準型の普通気動車列車として最近まで活躍したのはご存じの通りです。その後はキハ45→キハ47と変遷していきました。
なお、直噴エンジンを搭載したキハ37(DMF13)系エンジンへと続きますが、昭和40年代以降の気動車発展史を語らせていただきます。

昭和32年から製造が始まった気動車でキハ55と同様軽量車体構造を活かした車体で、キハ17では両端にあったドアが中央よりになっていますが、初期車は台車がキハ17系と同じDT19C(駆動台車)・TR49A(付随台車)が使用されており乗り心地の面で問題を残しました。

北海道向けのキハ20、外観はキハ20とほぼ同じで、出入り口も当初は仕切り板等がなく冬季の寒さが問題視されました。その後、簡易デッキとして仕切りなどがもうけられました。

キハ20系列は、当初キハ17に相似した、バス窓にDT19形台車を採用するなど車体幅以外はキハ17と同じでしたが、昭和33年増備車からは、エンジン出力の増強(150PS→180PS)台車の変更(DT22)側面窓も2段上昇式に改良されました。

通勤形気動車の誕生の背景

なお、今回は一般気動車の中では異色のキハ35・36形気動車に焦点をあててみたいと思います。
キハ35系気動車は、関西線は東海道本線比べて近代化が遅れていた関西線に、昭和36年から投入された車両です。
関西線は、関西鉄道を前身とする鉄道で東海道線のバイパス線と比して大幅に近代化が遅れていました
その理由の一つには、並行する近鉄の存在も大きかったと思われます、結果的に国鉄としても東海道線並びに新幹線の建設で、関西線まで中々予算を回せなかった事情もあったかと思います。
昭和32年には、準急「かすが」がキハ51で運転されるなど、一部気動車化されたとはいえ、その殆どの列車は蒸気機関車牽引による客車列車として残っていました。
昭和34年の監査委員会では、関西線の近代化が遅れていることが指摘され、それを受けて「湊町~奈良間」の線増と気動車化による抜本的な改善を図ることとなり、新たな通勤用気動車が開発されることになりました。

奈良駅で行われた出発式風景

キハ35形の特徴

この車両は、気動車初の通勤形として位置づけられ車内はロングシートが設けられていましたが、電車と異なり3ドアでステップ付きという車両と相成りました。
特に車体中央部はエンジンが搭載されており、ステップを戸袋窓付きで作ると車体強度上問題があるため、ドアは外吊り式とされましたが、プラグドアのように閉ドア時に車体とドアが密着すればよい良いのですが、そのような構造ではなく簡易な構造であったため、戸袋を設けることで強度が不足することは避けられた反面、隙間風対策は十分とは言えない車両となりました。
また、車体の外側をドアがスライドするため、ドアすぐ隣の窓は下段が特にほとんど開かないようになっており、腕などをだして、ドアに挟まれる事故が起こらないように配慮されていました。

車体の外側をドアがスライドするため、ドアすぐ隣の窓は下段が特にほとんど開かないようになっており、腕などをだして、ドアに挟まれる事故が起こらないように配慮されていました。

鉄道ファン 1962年1月号から引用

113系クハに準じた仕切り方式で、連結時は、下記のように助士席を塞ぐようになっている。

鉄道ファン 1962年1月号から引用

仕切りを側へ開いて乗務員用出入り口を塞ぎ広場を作ったところ、腰掛けの向こうに幅広く見えるのは排気管の立ち上がり部分

鉄道ファン 1962年1月号から引用

車内は、3ドアロングシートですが、運転台の反対側車端にはトイレが設けられ【キハ36はトイレなし)、トイレ横のシートは枕木方向に設けられていました。
これはトイレを開けたときに、乗客と直接目が合わないようにする配慮からでした。
また、電車は通勤形電車は禁煙でしたが、気動車の場合さほど混雑もしないと言うこともあって、出入り口付近の柱に灰皿が設けられており、車内で喫煙可能でした。

さらに、キハ20形一般気動車と異なり、キハ35はキハ80系やキハ28・58と同じ横型エンジンを積んでいたことも特色でした。
なお、キハ35が配置されたことで、湊町~奈良間は頻発運転が行われることとなりましたが、それでも近鉄が優位であることに変わりはなく、関西線の湊町から奈良間の電化は昭和48(1973)年まで待たねばなりませんでした。

運転台の反対側車端にはトイレが設けられ【キハ36はトイレなし)、トイレ横のシートは枕木方向に設けられていました。

鉄道ファン 1962年1月号から引用

ドアエンジンは外釣りの為、隙間風などの問題は最後まで解決できませんでした。

キハ82などと同じ、横型エンジンを採用したため、室内にエンジン点検蓋がない

昭和38年4月から5月には、オールステンレス車両のキハ35系900番台が誕生しました。
東急車両が、米国パッド社との技術提携により綱体部分を設計製作したものであって、車両の一層の軽量化及び外部塗装の廃止による数や修繕工程短縮と言った効果が認められるものの、塗装職場などでは合理化で人員を減らされるのではないかという反対運動を繰り広げたことや、パッド車との技術提携と言うことで、車両単価も高くなる等の理由で10両のみの製造に止まりました。

試作車として房総線に投入された、キハ35-900
鉄道ファン1963-6 から引用

当時の技術では歪み対策として、コルゲートは不可避でした。

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