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この記事は私がまとめました

鉄道ジャーナリスト、日本国有鉄道研究家の加藤です。本日は気動車急行の誕生と言うことでお話をさせていただきます。国鉄の標準急行用気動車として、JR発足後も長らく運転がされましたが。この気動車のデビュー当時の話などをさせていただきました。

blackcat_katさん

急行形気動車の決定版 キハ58系気動車誕生

キハ55の成功は、無煙化と高速化を同時に達成する手段として各管理局からの配置要望も多かったそうです。
準急気動車が気動車化されても、急行は客車列車の場合も多く、急行列車の気動車化は喫緊の課題でした。
ただ、キハ55は気動車としては優秀でも、車内設備は貧弱であったことから、特急列車並みの車体幅とした、急行気動車の開発が進められることになりました。

キハ55と同じエンジンをDMH17を搭載する急行気動車として、キハ81系特急と同じ横型エンジンを搭載したキハ58系列が急行気動車の標準として誕生します。
その後、キハ90・91形気動車が試作され、その成果を元に、500PS機関を搭載するDML30HS系機関を搭載するキハ65が誕生します。キハ65は、キハ58系列との互換性を持たせていることから、細い矢印で表現させていただきました。

加藤追記
急行気動車は、キハ55系準急用気動車からスタートした気動車は、その後キハ58系に始まる急行形標準と言える気動車に発展して行くことになります。
なお、信越本線を走ったキハ57は、試験の結果基礎ブレーキ装置がアプトレールと抵触する可能性があり、キハ60で試用されたディスクブレーキ付台車付の空気バネ台車を履かせていました。【表現に一部誤りがあったため修正】
また、キハ58系列のグリーン車は1エンジンのキロ28が主力でしたが、急行アルプス用に8両だけキロ58が製造されました。
キハ65は、58系気動車との併結を当初から想定していたためマスコンなどはキハ58などと共通になっています。キハ91の基本構造はそのままキハ181に踏襲されることになりました。

北海道用のキハ27とキハ56は昭和36年に登場している。これは、初期車は試作的要素が大きく、裾絞りが直線的で、前照灯が100mmほど内側に設置されており、その後の標準的な58系と比較すると寄り目になっています。
左側がキハ56、右がキハ58

先行して製造されたのは北海道用のキハ56.27

実は、製造に関しては北海道向けの車両開発が先行したため形式的にはキハ56【北海道用】キハ57【信越線】キハ58の順で製作されました。
キハ56は、昭和36年1月に先行試作車が完成しています。
これは、北海道の輸送改善が遅れており、特に気動車は本州で使用しているキハ04などがそのまま冬季でも使われており、運用上も旅客サービス上も問題があることから、早期の改善が望まれていたためです。
キハ55と基本的なスタイルは同じですが、車体幅は2900 mm となり、車体幅を絞る形となった他、ドアの幅が740 mmから850 mmに拡大されています。
特に先行して誕生した、キハ56はキハ22に準じた車体であり、1等車は153系サロ152と同様にリクライニング装備のシートが取り付けられ、キハ56と同じ二重窓が設けられました。

北海道用に最初に投入された、キハ56とキハ27
窓は小窓となった以外は、その後登場するキハ58などとほぼ同じレイアウトとなっている。
100年の国鉄車両から引用

なお、エンジンはキハ80系で採用されたDMH17H【横型エンジン】が採用され、排気筒が出入り口両端に移設され、キハ20までの車両にあったように車体中心に排気筒が無くなり車内がすっきりしたものです。
また、洗面所も客車同様のものが設置され、急行列車にふさわしいものとなりました。
実際には、準急気動車でもキハ28・58が使用され、その逆でキハ55・26が急行列車に使用される場合もありました。
もっとも、北海道ではキハ22が急行列車として走るなんてことも一般的でした。
今から考えればおおらかな時代であったと思います。

北海道向けに製作されたキハ56は、昭和35年度の借入車両(民有車両)としてキハ56 5両、キハ27 10両、キロ26 5両及び自己資金(債務負担行為)でキハ27 2両、計22両が製作されたそうで、3月下旬に落成、急行“すずらん”の置換え、準急"オホーック”かむい”の増強に使用される。
なお、急行「すずらん」は夏場は内地向けのキハ55を借り入れて使用し、冬場はキハ22による代替使用(キロについては、代替車が無いため冬場でもキロ25が使用されたと言われています。)が行われたと言われています。
当時の「すずらん」の編成を見ますと、1等車【グリーン車】を連結する車両であり、当時の優等列車の一角を占めるものであることが窺えます。
と記述されています。

本州向けに開発された車両は、サロ152同様の下降式窓が採用されました
その後本州向けに開発された車両は、サロ152同様の下降式窓が採用されましたが、下降式窓の保守を十分に行えず昭和50年代にはユニットサッシの窓に取り替える改悪工事が行われ、優雅な下降窓は無粋な上段下降下段上昇の緊急時に窓から脱出できないのではと思わせる窓高さの車両が誕生しました。
ただ、1等車に関しては、サロ152等が特急形に準じた蛍光灯カバーがありましたが、気動車では省略されるなど、微妙に簡素化されていたりしました。

善光寺御開帳に間に合わせるべく製造されたキハ57

さらに、昭和36年4月には長野県善光寺のご開帳に合わせるための気動車キハ57が誕生しています。
国鉄の部内誌、交通技術によりますと、下記のように書かれています。
36年度新形式で専ら上野~長野間急行に使用され、4月から始まる善光寺様の御開帳に極力間に合わせるべく急いで製造したが4月中旬から5月上旬にかけて16両が落成し、引続いて追加10両は5月の契約となる予定である。
と記録されています、更に昭和37年には長野電鉄の湯田中まで延長運転【二等車2両】されており、連日120%以上の乗車率であったと記されています。

上野~湯田中間直通運転開始
信越線 上野~長野間のディーゼル急行 志賀号、丸池号の車両の一部(ニ等車二両)が、去る三月一日から、志賀高原の基地湯田中駅まで直通乗リ入れ(屋代経由)を行っている。
これにより、上野|湯田中聞は、乗り換えなしで五時間で結ばれ、信州の奥座敷まで東京から快適なディーゼル・カーで往復でき、観光客誘発に一役買うことになった。
初日から一〇日間の利用状況は、特に上り列車が好調で、定員一六八名に対し、上り志賀号は一二九%、丸池号は一三四%の乗車効率を示している。

気動車急行の標準形 キハ28・58

急行形気動車の標準として誕生したキハ28・58は、先行して誕生したキハ56や57と基本的な構造は変わらないものの多少の差異はありました。
北海道向けのキハ56が床を木製としたのに対して、リノリューム張りとしたこと、キハ57がアプト区間を通過するため空気バネで車体の高さを調整し床下機器がラックレールに接触しないように配慮され、ブレーキ装置もディスクブレーキを採用していましたが、キハ58系は、台車もコイルバネに変更されるなどの違いがありました。

交通技術昭和33年9月から引用

左記の画像は、キハ55などに採用された気動車標準台車のDT22,TR51形台車、この台車はブレーキ装置が下部に設置されており、多客時に台車のバネが撓み車体高さが下がるとブレーキ装置がラックレールと接触する可能性があることから、空気バネで車体高さを一定に保つことを目的としてディスクブレーキに構造を変更すると共に、空気バネが採用されました。

ただ、同じ形式のキハ58であっても製造年次が昭和35年から43年と9年の開きがあり、製造年次などで多少デザインが変わっていきました。
特に昭和42(1967)年度本予算車(誕生は1968年のため1968年製造の記述がある場合もあり)では、153系電車のように、パノラミックウインドウでスカートも設置されるなど外観が大きく変わりました。【それまでの気動車は、コストダウンのためパノラミックウインドウは省略され視界を確保するためできるだけギリギリまで窓を寄せるようになっていました。

キハ58・・・2エンジン付
キハ28・・・1エンジン付
以外は室内もほぼ同じ、なおキハ57も空気バネ台車以外は外観を含めほぼ同じなので画像は省略しました。

急行気動車の一等車〔グリーン車〕は、サロ152と同じ下降窓方式が採用されました。
昭和50年頃から下降窓の腐食が問題となり、上段下降・下段上昇のユニット窓に改造されてしまいました。

昭和50年頃から下降窓の腐食が問題となり、上段下降・下段上昇のユニット窓に改造された車両。
国鉄では、下降窓のメンテナンスを行うことができず、同時期に誕生した157系や10系寝台などもこの時期に相次いで廃車になってしまいました。

一番の特徴は、室内蛍光灯のカバーが省略されている点が、サロ152と大きく異なる点でした。

100年の国鉄車両から引用

サロ152では蛍光灯のカバーがつけられていることが判ると思います。

100年の国鉄車両から引用

加藤追記
気動車はローカル線でに使用が多かったから省略したとか電車より格下なのでと言う記述が時々見られますが、エンジンの価格が非常に高く、これがネックとなって電車よりも高価になってしまうことが原因だと思われます。余談ですが、キハ28とキハ35の製造費がほぼ同じでした。
ドアが多いことなども原因かと思われますが、正直驚かされます。

長編成に対応したキハ28・58誕生

液体式気動車は特急形を除けば基本的に足回りは共通で、エンジンはDMH17、ブレーキ装置はガソリンカー時代から使われている、DAブレーキ装置と呼ばれる自動空気ブレーキが採用され、制御は直流24V の電源を採用していました。
この場合、この方式ですと、長大編成になると、制御引通し線の電圧降下やブレーキの遅延が問題視され、編成で11両、エンジンは17台に制限されるなどその問題は深刻でした、そこで、昭和38年から落成するグループから、下記のように仕様が変更され、15両編成、エンジンまで対応可能なように仕様が変更されました。
各車に小型補助継電器を取り付けて、制御引き通し回路と接続して次車電源で各作用電磁弁を動作させることで、電流容量の逓減と電圧降下を避けるようにしたほか、ブレーキ装置も電気制御回路を付加した電磁弁式自動ブレーキを採用し、(DAE方式)としました。
これにより、最高15両編成、23エンジンまでの対応が可能になったとされています。

キハ58形気動車の誕生 修学旅行用800番台誕生

昭和38年には、東北地区でも利用債を引き受けに伴い800番台気動車が製作

キハ28・58は急行用の代表的な形式として活躍しましたが、修学旅行用としてもキハ28・58が製造されました。
修学旅行用として製造されたのは、キハ58形19両とキハ28形13両の合計32両で、昭和37年(1962)~昭和38(1963)年にかけて製造されました。
最初に導入されたのは、九州であり、利用債を引き受けて貰うことで実現したもので、159系に準じた内装で、159系のように2+3では無く一般的な2+2でしたが、155系でおなじみの跳ね上げ式テーブルを設置した他、客室内速度計を設置していました。

クリックすると画像が拡大します。
連結面寄りの一角が休養室となっていました。

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