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ファミマ社長・澤田 貴司氏の経歴が興味深い

経済誌などでは「永遠のガキ大将」というニックネームがついていますが、普通の経営者とは一味違ったビジネス人生は多くの人を惹きつけます。

更新日: 2019年04月14日

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経済誌などでは「永遠のガキ大将」というニックネームがついていますが、普通の経営者とは一味違ったビジネス人生は多くの人を惹きつけます。

m.satoakiさん

ざっくりと経歴

1981年 - 上智大学理工学部物理学科卒業。大学卒業後、伊藤忠商事入社。同社において、米国セブン-イレブンの買収等を手がける。この時父親を亡くす。
1997年、ファーストリテイリング入社。同社副社長在任時には柳井正から次期社長就任を打診されるが固辞した。2005年、リヴァンプを玉塚元一と共に設立。
2016年9月1日発足するユニー・ファミリーマートホールディングス傘下のコンビニ事業会社であるファミリーマート(旧・サークルKサンクス)社長に、伊藤忠の意向を受けて就任した。

学生時代から松任谷由実の自宅に出入りするなど親交が深く、苗場SURF&SNOWコンサートの発案者の一人でもある。

学生時代

大学時代には、アメリカンフットボール部に所属。4年時にはキャプテンを務めた

ユーミンは僕の4、5歳上で、当時は20代後半くらい。遊びに行けばユーミンが手料理を作ってくれるし、同じように遊びに来ているきれいな女優さんやモデルさんとも会える。毎晩、松任谷家に通いました。

ある日、「澤田君がデートするとしたら、どういうところが好き?」と聞かれて、僕は「それなら苗場スキー場がいいよ」と言った。「夏はどこがいいかな?」と聞かれて、今度は「逗子マリーナがいい」と言った──。

伊藤忠商事に入社した経緯

就職先は、当時の就職人気ランキングでもトップクラスだった伊藤忠商事でした。
私の大学から一人か二人しか入社できないと言われており、
正直、私の成績では絶対に無理な大企業でした。

私の先輩に伊藤忠商事で活躍されていた方がおり、
その方から「ウチに来なよ」と誘われたのがきっかけでした。
その先輩のおかげで、なんとか入社することができたのです。

伊藤忠商事時代

入社後、商品の受け渡し業務を6年間経験し、その後は営業に出て、欧米のメーカーから購入した化学品を日本やアジアの取引先に販売する仕事をしていました。

毎日のように本社に伺い、果ては担当部長のご自宅まで訪問し、「どうしても御社の原料を扱わせてほしい」とお願いに行くほどでした。この熱意が通じたのか、「一度だけ」とチャンスを頂くことができました。

そのチャンスをなんとか実績につなげたいと、必死で社内を説得し、手数料も取らずに販売しました。この商売をきっかけに、そのメーカーとの信頼関係が生まれて一気に取引が拡大し、加えて他社との新規取引も始まりました。
結果的には、商売を取り戻すどころか、300億円規模にまで拡げることができました。

小さな商売からコツコツと信頼を得る大切さを学び、それ以降、どんな仕事にも常に情熱をかけること、信頼を築くことを心掛けてきました。

32歳を迎えた頃、当時業務上の繋がりのない役員から突然呼び出しがあり、「イトーヨーカ堂グループとのプロジェクトにおいて、伊藤忠側の窓口になってほしい」と言われました。

イトーヨーカ堂グループがセブン-イレブン米国法人を買収・再建したプロジェクトに携わった澤田社長。当時、セブン-イレブンはアメリカで破綻したのに対して日本では大成功を収めていた。本家を飲み込むダイナミックなビジネスの下剋上を目の当たりにした

外資系小売業の日本進出を支援するプロジェクトチームを立ち上げた。
 米国のホームセンター、家具チェーン、オフィス文具チェーンなどが候補に挙がったが、このプロジェクトは1年も経たずに解散に追い込まれた。理由は「時期尚早」ということだったが、澤田氏の突出した行動に周囲の反発があった。

97年、失意のうちに退社した。

ファーストリテイリング(ユニクロ)時代

伊藤忠を去った澤田氏は、転職仲介会社を通じて97年に(株)ファーストリテイリング(以下、ファストリ)に入社した。ファストリ傘下のユニクロがフリースブームを巻き起こす1年前だ。知名度もなく、規模の小さな会社だった。1年半で副社長に昇進した。

今でさえカジュアル衣料業界では世界第3位だが、入社した当時は山口県宇部市にある無名の会社だった。
「ユニクロなんて誰も知らなかったので、東京の人から、なにそれ"のらくろ"か?なんて言われましたよ」

オフィスは田んぼのあぜ道の先にぽつんとある小さな倉庫。

柳井正さんの話を聞いているうちに引き込まれてしまい、「この人とだったら、すごく勉強になるんじゃないかと思い始めて、あまり会社のことは知らないのに帰る時には"お願いします!"と言っていた」

ファーストリテイリング在籍時に、ユニクロのフリースを大ヒットさせた

当時ユニクロは郊外の安いブランドというイメージが強かった。それが東京・原宿に出店する際、何かインパクトが必要だと考えた。そこでお店を丸々"フリースの館"としたら、これが見事に当たった

ここからユニクロの大躍進が始まったのだ。ファーストリテイリングの社長就任も請われたが、辞退。

爆発的なフリースブームは一瞬にして消えた。ユニバレ(ユニクロを着ているのが恥ずかしいという風潮)が起きて、ユニクロは急激に売上を落とした。
 副社長の澤田氏は、初の減益が濃厚になった際、柳井氏に社長就任を要請されたが、これを固辞し、02年5月にユニクロを退社した。

「柳井さんが会長の会社で、僕が社長をやる意味は何なのかなって、僕の中では消化できず、答えが出なかった。要は、社長と副社長でいいじゃないかと。僕としては、もうそれは難しいと思ったので会社を出たんです。社長を受けないっていうことは行き場がないわけですから」

澤田のユニクロで最も腐心した仕事の一つは、離職者をいかに食い止めるかだったという。

⇒澤田氏とともにユニクロ副社長を務めていた玉塚元一氏の回想

「このまま会社(ユニクロ)がなくなってしまうのではないか」というくらい、売り上げはさらに落ちていきます。
チームとしての一体感を持てなくなり、柳井さんも焦ってイライラしている。
このままでは組織がおかしくなりそうになったとき、柳井さんは副社長の澤田貴司さんを社長にしようとしました。
しかし澤田さんは辞退。
そこで私が社長を務めることになりました。

リヴァンプ時代

ユニクロを辞めた玉塚とふたりで、企業を支援する会社「リヴァンプ」を始めます。

リヴァンプは、相手先の要請により期限付きの買収を行い、経営を譲り受ける。そして経営者のみならず社員も含めたチームを送り込み、再建に取り組む。目標を達成すれば成功報酬を得て、株式を返却する。
 最初の案件が(株)ロッテリア。これを再生したことで、玉塚氏はローソンの新浪剛史氏にヘッドハンティングされた。

周りを無視した装いで大失敗をしたこともあるという。列席者が皆スーツで来ることがわかっていた重要な会議に、平然とTシャツ+ジーパンで臨んだのだ。

「意図的というより、"俺が澤田だ!"という驕りがあった。嫌なヤツです。今考えるととても恥ずかしい(苦笑)」

ファミリーマート時代(現在)

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