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この記事は私がまとめました

1930年代に活躍した、ボタフォゴのエース・ストライカー、                   カルバリョ・レイテ(Carvalho Leite)について、紹介します。

rulliさん

1912年、ブラジル生まれ。


【所属クラブ】
1929ー1942  ボタフォゴ  326試合274得点

リオ州リーグ  
  優勝  5回(1930、1932ー35[4連覇])
 
  得点王 3回(1936、38、39)
        



【ブラジル代表】
1930ー1940   10試合7得点

レイテは、18才でW杯1930に出場した。
ペレが1958年に登場するまで、28年間も
「W杯、史上最年少出場記録」を持っていた。
彼は、早い年齢から世界で通用していたFWだった。


【リオ州リーグで、得点王3回以上】

1930年代:レイテ
1950年代:クアレンチーニャ
1980年代:ジーコ、ロベルト・ディナミッチ
1990年代:ロマーリオ

の5人だけである(2019年、現在)。

彼は「稀代の名ストライカー」の1人である。

レイテは、「ボタフォゴ史上、最初の特別なアイドル」
と言われている
(注:ボタフォゴは、リオ州のビッグクラブ)。

リオ州は、1933年から「プロ・リーグ」が始まった。
レイテは、元アマチュアで、「プロ化移行期の時代」を生きた選手だった。

彼はプロ・リーグで、1930年代後半、3回も得点王になった。
そして「ボタフォゴ、歴代2位の通算得点、274得点」を持つ
(注:当時は歴代1位。現在1位は、クアレンチーニャ)

評論家は
「レイテは本格派のストライカーだった。
強烈なシュートが撃て、ヘディングがとても強く、
ペナルティー・エリア内での、ポジショニングは素晴らしかった」
と説明している。

レイテは18才で
リーグ戦、13得点(20試合)し
代表に選ばれ、
「チーム最年少(18才)」で
既にブラジル代表レギュラーだった。

しかし、大会前に右腕を脱臼した為、
初戦のユーゴスラビア戦を欠場した
(試合は、ブラジルが1-2で敗れた)。
どうしても試合に出たかったレイテは、
ギブスを外し、監督に「大丈夫だ」と主張して、
第2戦のボリビア戦に出場した。
試合は、4-0でブラジルが勝利した。
レイテは、無得点だったが、アシストを2つしたので翌日、地元、新聞紙に称賛された。
しかし、この大会、ブラジルは、GLで敗退した。

彼は、ブラジルを背負う、若手選手として
将来を期待されていた。

前列、中央が レイテ。

彼は多くのゴールを決めた。

【ボタフォゴ、歴代、得点順位】
( )内は得点率。

1位 クアレンチーニャ :1950年代
           404試合306得点(0.68)

2位 レイテ      :1930年代  
           303試合261得点(0.86)

3位 ガリンシャ   :1950年代
           612試合243得点(0.39)

4位 エレノ      :1940年代
           235試合209得点(0.88)

5位 ニロ       :1920年代
           201試合190得点(0.94)

写真、中央が、レイテ。

ボタフォゴのグラウンドで、
「ブラジル代表、若手組」のトレーニングが行われた。

レイテは若手の扱いをされたが、
2年前、18才で既にW杯出場し、
既にA代表の選手だった。

この1932年、レイテ(20才)は、
ボタフォゴのエースで、リーグ優勝をした。
20得点(24試合)の活躍をした。

この年は、20得点したが、得点順位は2位で、
フルミネンセのプレギーニョ(21点)に
1点及ばず、得点王は逃した。

写真、左  バルデマール・ジ・ブリト(21才)
   中央 レイテ(21才)
   右  レオニダス(20才)

レイテは、ブラジルで一番の若手選手だった。
しかし、その後、1才年下のレオニダスが台頭して
来て、ポジションを奪われた。
その結果、W杯1934では、レオニダスが先発し
レイテは控えとなり、出場ができなかった。

W杯1934で、ブラジルは初戦敗退した
(スペインに1-2で敗れた)。
1試合しただけで、帰国した。
この時代のW杯は、「トーナメントの1発勝負」
のみだった為、初戦に負けたブラジルは、
フランスまでわざわざ行ったが、1試合しただけで
大会が終わった。

写真、後列、左端が レイテ(23才)
   後列、左から5番目 レオニダス(22才)

1935年、レイテのブラジル代表でのライバル、
名手レオニダスが、ボタフォゴに入団した。
レオニダスは、シーズン途中、第6節以降から加入して、1シーズンだけ在籍した。

2人の活躍もあり、ボタフォゴは「リーグ4連覇」
を達成した。

レイテは   16得点(16試合)した。
レオニダスは 8得点(16試合)した。

得点王は、ラジスラウ(バング―)、18得点で、
レイテは2得点及ばなかった。
レイテは怪我で、途中5試合、離脱したので、
怪我をしてなければ、この年は、得点王を獲れた。

写真、前列、右から2人目、レイテ(23才)
   後列、左から2人目、レオニダス(22才)

レイテは、1932年、20得点(24試合)
     1933年、14得点(18試合)
     1934年、3得点(6試合)という
     成績だった。
    (注:3年共、チームは優勝した)。

1934年は、怪我で長期欠場。
1935年は、復活し、活躍して16点取った。

このチームは、この年、
ブラジルで、最も優れたFW2人がコンビを
組んだ訳だ。
優勝したのは、当然の結果かも知れない。

レオニダスはシーズン終了後、
同じリオ州のフラメンゴに移籍し、
僅か1年で、ボタフォゴを退団した。

写真、左から2人目が、レイテ。
   
この写真にレオニダスは、写っていないようである。

注:ボタフォゴでは、
「アマチュア・リーグ時代からの優勝と合わせて
4連覇」
と数えているようである。

写真、中央が レオニダス(22才)
   左奥が レイテ(23才)

1935年、
レイテ    16得点(16試合)。
レオニダス  8得点(16試合)。

結果的に、2人共、同じ試合数になったが、
レイテの方が、2倍多く得点をした。


レイテは、この後、

  翌1936年(24才):15得点 [得点王]
   1937年(25才):21得点 得点順位 4位  
            得点王は、ニジーニョ、25得点。
   
   1938年(26才):16得点 [得点王]
   1939年(27才):22得点 [得点王] 

  で、「リオ州リーグ戦 得点王」を「計 3回」、獲った。

写真、中央、レイテ。
   左から2番目、レオニダス。

レイテは、「コパ・アメリカ1937」に出場した。
(レオニダスは不参加だった)。
レイテは4試合3得点で、得点順位は6位だった。
(1位はチリ代表のラウール・トロ、
5試合7得点)。ブラジルは準優勝した。

この大会、レイテはセンターフォワードを務めて、
3得点して活躍したが、
アデマール・ピメンタ監督は信頼しておらず、
決勝のアルゼンチン2連戦では、先発から外した。
代わりに二ジーニョが先発した。
その後、翌年のW杯1938で、レイテは落選した。
この頃、レイテはリオ州リーグで一番のFWだったのでこの決定に、ブラジル国民は驚いた。

W杯1938にレイテは落選し
ピメンタ監督は、CFにレオニダスと
ニジーニョを選んだ。

ブラジル国内では
「レイテは、毎年、安定して活躍している」、
「レイテは過去2回、W杯に参加しているので、
彼の経験を生かすべきだ」
という批判が起きた。
ピメンタ監督は理由を明らかにせず、
ブラジルのマスコミの解説では
「レイテは力強さを武器に戦う選手で、
ヘディングはとても強いが、足の技術が少し不足した選手だった。
その為、監督は、技術が少し不足したレイテの
スタイルを嫌っていた」
という説を、最も有力として紹介されている。

写真、左が レイテ。

レイテは、1930年代、
リーグ戦で大活躍していた一流ストライカーだ。
しかし、代表で目立てなかった為、
現代では、全く話題にならない
(ブラジル人からも忘れられている)。

レイテは、1930年代、
「W杯1938で得点王になったレオニダス」
よりも、同じ「リオ州リーグ」で、点を取っていた選手である。得点王の回数も多かった。

W杯1938で、レオニダスは
「得点王とMVPをダブルで受賞」し
世界一の選手になった。
「1938年、リオ州・リーグ」は、
W杯後に始まったが
レイテ、レオニダス、共に16ゴールで、
得点王を分け合った。
レイテは彼に負けていなかった。

写真、左が レイテ
   右が エレノ・ジ・フレイタス

エレノは名選手だ。彼は
「ボタフォゴ、歴代4位、209得点(235試合)」
を決めた。
エレノは、レイテの8才年下で
「1940年代のエース」だった。
彼はブラジル代表で
「コパ・アメリカ1945、1946」で
2大会連続でCFを務め、
「1945年大会、得点王」になった。

ちなみに、エレノの次、1950年代のエースが、
ガリンシャ(歴代得点3位)と
クアレンチーニャ(歴代得点1位)だ。
2人は同い年で在籍した為、
彼らの時代は、「ボタフォゴ史上、最強」だった。

「レイテ → エレノ→
ガリンシャ & クアレンチーニャ」である。

1941年5月、レイテは、ボンスセッソFC戦で
脳震盪(のうしんとう)を起こした。
これが影響し、翌1942年1月、
29才という若さで引退する事を決めた。

レイテは、通算、274得点(326試合)
だが、この事故がなければ、あと100点近く、
得点数は増えていた事だろう。

彼は、ボタフォゴの「リーグ4連覇」の
主役だった。国内リーグで大活躍した。

しかし、代表チームでは、非常に若く代表入りしたが、その後、当時のブラジル代表監督の好む
プレイ・スタイルでなかった為、冷遇された。
彼は運がなかった選手だろうと思う。

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