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rulliさん

1922年、ハンガリー生まれ。

【主な所属クラブ】
1940ー1947  セントレーリンツ   72試合220得点
1947ー1950  フェレンツバーロシュ 140試合200得点
1950ー1954  ウーイペシュト    77試合 53得点

ハンガリー・リーグ優勝  1回(1949)
         得点王 3回(1946、1947、1949)
 
欧州 年間最多得点 3回(1946、1947、1949)


【ハンガリー代表】
1946ー1949  20試合29得点 (得点率 1.45)


公式戦 通算576得点(378試合)
「サッカー史上、歴代8位」(2019年3月現在)。

彼は、1950年代前半、「黄金のチーム」と
呼ばれた、「世界最強、ハンガリー代表」が
登場して来る数年前に大活躍していたスター選手で
ある。

彼は、1940年代、第二次世界大戦に遭遇した
為に、W杯中止の時代に、選手生活を送った。
またその後、怪我をした為(ウーイペシュト時代)
プスカシュ、コチシュ等、世界を席巻した
才能溢れる後輩の「黄金チーム」と一緒に長く
プレイできず、代表引退した。
この様な結果、現在、彼の世界的な知名度は
とても低い。
しかし、彼は、プスカシュ、コチシュに引けを取らない実力者である。

彼は公式戦で、通算576得点(378試合)で
「サッカー史上、歴代8位」である。

写真、左が、ダーク。

戦争が起きず、平和であれば、
ダークは、後輩のプスカシュ達と同じく、
W杯で活躍したり、またレアル・マドリード、
バルセロナ、インテル等のビッグ・クラブに移籍できた可能性もあった。「サッカー界の王様」のような扱いを受けていただろう。
そういう意味で、彼は本当に不運な選手である。
彼は、戦争が起きた為、自分の実力を見せる
国際大会が開催されず、歴史に埋もれ、地味な存在にされた。

ダークは1930年代、1950年代に世界を驚かせた
2つの「ハンガリー代表、黄金世代」の
中間時期に居た選手で、運悪く世界が混乱していた
時代に現役が重なったスター選手だった。

写真、左が、ダーク。

ダークはハンガリー代表で、
「20試合29得点」で、「得点率、1.45」で
ある。
統計機関は、「30得点以上の選手」を条件に
「歴代得点ランキング」を発表している。
その為、彼は、「30点に僅か1得点、満たない」
ので世間に記録を紹介されず、この凄い得点率も
話題にならない。
しかし、彼の得点率1.45は、
現在「代表チームで、得点率、世界1位」
とされている
「ジュスト・フォンテーヌ(フランス代表)1.43」
を上回っている。

ダークは、サッカー史上で「最高クラスのFW」
だが、色々な不運を被り、後世では統計機関からも
無視の扱いを受けている。

写真、右から2人目が、ダーク。

写真、左が、ダーク。

彼のプレイスタイルについては、
「ダークは、元々、ゴールキーパーだったが、
ユース時代に、キック力の強烈さを評価され、
センターフォワードにポジション変更を勧められて、以後、FWとなった。
彼は、楽天的かつ抜け目のない性格のFWで、
ヘディングがとても強く、ペナルティーエリアでは空中戦で抜群の強さを発揮した」
と説明されている。

また
「ダークは、間違いなくハンガリー史上、
最も屈強なFWだ。超人ハルクのようだった。
高く跳び、体はとても強く、スタミナもあった。
そして、シュートは強烈だった」
と説明されている。


彼は、元々の身体能力が高い選手であった。

彼はハンガリーのビッグクラブ、
「フェレンツバーロシュ」所属でエースだったが、
1950年のある夜、バーに行き、そこで政府警備員と喧嘩となり、相手を殴った。
その結果、牢屋に入れられた。
そして、「この囚人状態から逃れる為には、
ライバル・チームのウーイペシュトに移籍する事」を条件に出された。
彼は、フェレンツバーロシュを退団する事は嫌であったが、仕方なく、ウーイペシュトに移籍した。
その後、彼は新チームでも活躍したが、
度重なる怪我に見舞われ、本来のプレイが
できなくなり、全盛期が終了した。

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