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この記事は私がまとめました

rulliさん

1922年、ブラジル生まれ。

【所属クラブ】
1940ー1941 サントス   11試合13得点
1942ー1943 パルメイラス 32試合9得点
1943ー1944 サントス   5試合5得点
1944ー1957 コリンチャンス 549試合245得点
1959ー1960 サンパウロ  35試合10得点 


サンパウロ州リーグ 優勝 6回
(1940、42、44、51、52、54)

トルネオ・リオ・サンパウロ 優勝 3回
          (1950、53、54)

クラブW杯 優勝(1953)

【ブラジル代表】
1945ー1957  12試合5得点

コパ・アメリカ1949  優勝

彼の正式名は、
「クラウジオ・クリスタバン ジ ピーニョ」
(Cláudio   Christovam  de  Pinho)。

通称、「クラウジオ」である。

彼は小柄で、身長は162センチだった。

彼はなんと、サンパウロ州で一番人気がある、
超人気チーム、「コリンチャンス」で、
「クラブ最多得点記録」を持つ、選手である。
コリンチャンスで、通算306得点(554試合)
を決めた。
彼が退団して、62年も経つが、未だに破られていない(2019年、現在)。

彼は右ウィングだったが、
同じチームのCF、バウタザル(ブラジル代表で
活躍した選手)よりも点を取った。

クラウジオは、とても優秀な選手だったが
同時代、同じ右ウィングのポジションに、テソウリーニャが居て、
彼の方が実力が上だった為、ブラジル代表での出場試合数は少ない。
しかし、クラウジオは、クラブ・チームでは大活躍して偉大な成績を
残した。彼は紛れもない「超一流、選手」である。
彼は、コリンチャンスで「グラウンド上の監督」の如くプレイした為、
愛称は「ジェレンチ:O Gerente(マネージャー、部長)」だった。

クラウジオは代表で活躍しておらず、南米の古い選手である理由の為か、
日本メディアはバカなので取り上げない。
だから、日本では全く有名ではない。
しかし、彼は、とても偉大な選手だ。

写真、前列、左端が クラウジオ。
   前列、中央が バウタザル。


この年、クラウジオ(32才)は、
「コリンチャンスで3回目の優勝」を果たした。

写真、左端が クラウジオ。
   中央が バウタザル。

コリンチャンスは、1950年代前半に
「サンパウロ州、リーグ優勝 3回」し
ブラジル王者に3回なり、
1953年には、世界王者にもなった。

クラウジオは、コリンチャンスの黄金時代を作った
中心選手である。

評論家は、
「クラウジオは、『グラウンド上の監督』という
タイプの選手だった。
彼はチームの主将だったが、高い技術がある為、
プレイ面においてもチームを統率した。
彼は、周囲の選手に指示を出して、プレイした。
そのような姿から、愛称は
『ジェレンチ:O Gerente(マネージャー、
部長)』
になった」
と説明している。

写真、左が クラウジオ。
   右が ホベルト・ベランジェロ
     (守備的MF)。

写真、各クラブに在籍していた時の、
クラウジオの写真です。

一番、左端が、サントスFC時代。
左から2番目が、パルメイラス時代。
左から3番目が、コリンチャンス時代。
右端が、サンパウロFC時代です。

クラウジオは、サントスFCのユース出身で、
サントスFCに2回在籍したが、定位置を掴めなかった。
そして、コリンチャンスに移籍し、大活躍した。

彼は、育ったサントスFCでなく「ライバル・チーム、コリンチャンス」で「最大級のアイドル」になってしまったのです。

ちなみに、クラウジオは20才の時(サントスFC時代)、
ブラジル代表に選ばれ、「コパ・アメリカ1942」に参加した。
3試合に出場し、1得点した(ブラジルは、大会3位で終えました)。
彼は代表では、若くして活躍していたが、
その後、テソウリーニャという「同じ右ウィングの名手」が現れた為、
ポジションを奪われ、試合に出場できなくなった。

クラウジオは、サントスFCでプロ・デビューしたが、
定位置を掴めず、パルメイラスにレンタル移籍をした。
パルメイラスでは、レギュラーで活躍し、
「1942年、サンパウロ州リーグ 優勝」をした。
クラウジオは、優勝決定戦の、サンパウロFC戦で、
先制点を決め、パルメイラスは3-1で勝ち、優勝した。
翌年、彼は、サントスFCに復帰したが、ほとんど試合出場ができなかった。
その為、同じサンパウロ州のビッグクラブ、コリンチャンスに移籍した。
その結果、コリンチャンスで大活躍した。

「サントスFC →パルメイラス →再びサントスFC
→コリンチャンス」
と渡り歩いた末、
ようやくクラウジオは、コリンチャンスで、
能力が、完全に開花した

彼は、コリンチャンスで12年間も、
チームの司令塔として大活躍した。
そして、クラブ最多得点記録「306得点」を
作った。
(注:国内リーグ戦以外も含めた、
通算、公式戦得点記録)

クラウジオはコリンチャンスで12年間も大活躍した後、
37才で、サンパウロFCに移籍した。
そして、サンパウロFCでは、1年だけプレイした。
この結果、彼は、
「サンパウロ州の4つのビッグクラブ、全てに在籍した選手」
になった。

「サントスFC →パルメイラス →再びサントスFC
→コリンチャンス→ サンパウロFC」

クラウジオは、サンパウロ州内を、色々回って、
現役を終えた。

写真、中央が、クラウジオ(22才)。


1945年3月18日、
サンパウロ州カップ、
「コリンチャンス 対、パルメイラス」
がコリンチャンスのホーム、
パカエンブー・スタジアムで行われた
(アウェー・ユニフォームを着ているが、
コリンチャンスのホーム・スタジアムで行われた)。

この試合、
前半36分、クラウジオが先制点を決めた。
手を上げ、喜んでいる。
しかし、後半、パルメイラスが同点ゴールを決め、
この試合、1対1で、引き分けに終わった。

この得点は、彼がコリンチャンスで決めた
「通算306得点の中の、最初のゴール」だった。

写真、左 白いユニフォームがクラウジオ。

クラウジオは、コリンチャンスの最大のライバル、
パルメイラス戦で、「21ゴール」を決めた。
これは未だに、
「サンパウロ・ダービーの最多得点記録」である。
(パルメイラスの選手を含めても、歴代1位)
彼が引退して62年経つが、未だに破られていない
(2019年 現在)。

彼は、「コリンチャンスで通算、306得点」
である。
コリンチャンスには、
FWバウタザル、MFロベルト・リベリーノ、
MFソクラテス等、
W杯で大活躍した名選手が在籍したが、
皆、クラウジオ以下の得点数である。

写真、左から2番目が、クラウジオ。
   左端は、バウタザル。


クラウジオとバウタザルは、
「コリンチャンスの黄金時代」を作った。

この写真は、クラウジオが得点した後だが、
クラウジオのポジションは、右ウィングで
普段は、バウタザルにクロスを上げて、
彼のヘディング・ゴールのアシストをした。

クラウジオは、アシストも数多くし、
自分でも数多くのゴールを決めた。

左が クラウジオ 
右が ベランジェロ
(同じコリンチャンス所属、MF)

1950年時、ブラジル代表で
クラウジオ(27才)は
インテルナシオナルの名ウィング、
テソウリーニャに勝てず、代表で控え選手だった。
前年、「コパ・アメリカ1949」で、
彼は、数試合出場に留まった。
しかし、W杯1950大会前、テソウリーニャが
怪我をし不参加を決めた。
その為、クラウジオがW杯出場し、先発すると
思われたがなんと落選した。
フラビオ・コスタ監督は
バスコの右ウィング、マネカ、
サンパウロFCのFW、フリアサを選んだ。

クラウジオは、超一流選手だったが
W杯には一度も出場せず、キャリアを終えた。

写真、右 クラウジオ。
   左 アルベジャ。

ブラジルで1番の人気チームである
「フラメンゴのクラブ最多得点保持者」は
ジーコである。

ブラジルで2番目の人気チーム、
「コリンチャンスのクラブ最多得点保持者」は
クラウジオである。

どちらのチームも
「ブラジル有数の巨大都市」、
「国内で最もレベルの高い州リーグ」
(リオとサンパウロは双璧とされている)
を代表する、「一番人気のチーム」として有名だ。

しかし、日本ではジーコはとても有名で
フラメンゴのレジェンドとして知られているが、
クラウジオに至っては、驚く程、無名である。

写真、左 背広姿の男が、クラウジオ。
   右 ペレ。

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