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この記事は私がまとめました

rulliさん

1933年、ブラジル生まれ。

【主な所属クラブ】
1956ー1965  ボタフォゴ  417試合313得点
1965ー1966  マグダレナ   39試合26得点


リオ州リーグ 優勝 3回(1957、61、62)
       得点王3回(1958ー1960)
       [3年連続、得点王]

リオ・サンパウロ・トーナメント
       優勝 2回(1962、1964)
       得点王1回(1960)        


【ブラジル代表】
1960ー1963  13試合14得点

2008年、彼の伝記、
『クアレンチーニャ、笑わないストライカー』が発売された。

クアレンチーニャは、ゴールを決めても祝う事を嫌い、
決して喜ばなかった。
そして、「サポーターが自分のゴールを祝う事」も嫌がった。
当時、変わり者と思われていた。
彼の内気な性格が原因と言われている。
クアレンチーニャは
「俺は、ゴールを決めるのが仕事でお金を貰っている。
だから、当然の事をしているだけだ。
だから、私が得点しても祝う必要なんてないんだよ」
と話していた。
当時の様子について
「クアレンチーニャはゴールを決めても、即、背を向けて
自陣に帰り、あたかも失点したような暗さだった」
と説明されている。

写真、一番左が、クアレンチーニャ。

クアレンチーニャとは、「小さい40」という
意味である。変な名前である。
これは、彼の父親が「クアレンタ(数字の40)」
という選手名だった事が由来である。
父親は、北ブラジルの「パイサンドゥー」という
クラブで名FWで、有名人だった。
彼の父親は、学校時代、背番号40の服でサッカーをしていたら、愛称が「クアレンタ」になり、
それでこれを「選手名」にする事に決めた。

その息子は、パイサンドゥーでサッカーを始めたら
周りが、クアレンタの息子なので、
「クアレンチーニャ」と呼び始めた。
そして、息子はそれを17才の時に、
「正式、選手名」にする事に決めた。

クアレンチーニャは、「強烈なシュート」を撃てる事で、
有名だった。
1960年頃、「ブラジルで1、2を争うキック力」
と言われる程、その名が轟いていた。

評論家は、
「クアレンチーニャは、恐ろしいキック力を持つFW
だった。尊敬されていた。
彼はどこへ行っても、どんなGKも震え上がらせていた。
ある時、『ボタフォゴ 対 サントスFC』の試合があった。
その時、サントスにはぺぺが居た。
彼とクアレンチーニャはブラジルで1番、キック力のある2人だった。この試合で、FKになった時、両チーム共、
選手全員が怯えて、壁になる事を怖がり、嫌がって試合していたよ(笑)」
と話している。

クアレンチーニャは、
リオ州のビッグクラブ、ボタフォゴで、
「クラブ史上、最多得点記録」(313得点)
を持っている。
彼が退団して、54年経つが、未だに破られていない(2019年、現在)。

またクアレンチーニャは、1958年から
「リオ州、3年連続、得点王」を成し遂げた。
「3年以上連続で、得点王」になったのは、
現在、リオ州リーグ史で、
彼と、ジーコ、ロマーリオの3人だけである
(2019年、現在)。

クアレンチーニャの時代、ブラジルはW杯優勝して
優秀な選手がリオ州(国内でリオ州とサンパウロ州は一番、レベルが高い)に居た。
その中で、彼の「3年連続達成」は偉業である。

クアレンチーニャは、リーグ戦で
「3年連続、得点王」達成し、
ブラジル代表でも「13試合14得点」という
凄過ぎる成績だったが、W杯1962に落選した。

アイモレ・モレイラ代表監督は、
サントスFCのFW、コウチーニョを選んだ
(クアレンチーニャ、コウチーニョは2人共、
CFで、同じポジションだった)。

コウチーニョはペレ(サントスFC所属)の
大親友だった。
そしてペレと同じチームでいつも試合を
していた為、2人の連係は当然だが良かった。
その為、当時、モレイラ監督は、ペレは大スターで、チームのエースだった故、
彼の要望を察して、コウチーニョの方を
選んだのではないかと推測されている。

写真、中央が、クアレンチーニャ
   右端が、ペレ。

写真、中央が、クアレンチーニャ。
   右から2人目が、ペレ。

クアレンチーニャはW杯に一度も出場していないが、紛れもなく、世界の一流選手だった。

それは彼の成績を見れば、分かる事である。

彼はW杯に出場していないので、
現在では、ブラジル以外では全く語られない。


という事で、私が可哀想なクアレンチーニャを
日本の皆さんにご紹介しました。

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