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この記事は私がまとめました

rulliさん

【本編開始】

世界では、1930年代初め頃に、プロ化した国が多いので、       この時代から紹介して行きます。

1901年、アルゼンチン生まれ。

彼は、サン・ロレンソ、ユベントス、
アルゼンチン代表、イタリア代表で活躍した。

モンティは、体格が良く、
激しいスライディングをして、
主に守備で貢献するタイプのボランチだった。

彼はキャプテンシーがあり、
イタリア、ユベントス時代は、主将を務めた。

モンティは、、ユベントスでは
リーグ4連覇(1932-35)を成し遂げ、
クラブの黄金期を作った。

写真、
左が W杯1930、アルゼンチン代表、モンティ。
右が W杯1934 イタリア代表、モンティ。

彼は、W杯1930、W杯1934を
「別の国の代表チームで参加した」という
珍しい選手で、
しかも、2チーム共、決勝進出をした為、
「違う国の代表として2回、決勝を戦った」
W杯史上、唯一の選手である。

モンティは、W杯1930は準優勝、
      W杯1934は優勝した。

現在のルールでは、こんな事はもう不可能だ。

写真、左が モンティ。

W杯1934開催国はイタリアで、
独裁者ムッソリーニが統治していた。
彼は、優勝させる為、
当時、イタリア・ユベントス所属、
アルゼンチン代表のモンティに、高待遇を示し、
イタリア代表になる事を要求した。
モンティは、この話に乗り、イタリア国籍を取得した。

そしてW杯開催中、イタリア代表選手達が、
政権から受けるプレッシャーは凄かった。
モンティは、
「もし優勝を逃したら、殺されるのではないかと
プレッシャーを感じながら戦っていた」
と述懐している。

モンティは幸運にも優勝した。
(W杯1934は、イタリアの審判買収疑惑がある、
怪しい大会だったと言われている)。

写真、右端が モンティ。

まだ「第1回、W杯」が開催される前の時代で、
この当時は、オリンピックが「世界最高の大会」だった。
だから、オリンピック優勝チームが、「世界一」とされ、
優勝国は、「世界一だ」と自慢をしていた。
(特にウルグアイは、現在でも、
「五輪の優勝(2回)とW杯優勝(2回)を合わせ、
世界一になった回数を数える」という人が居る)

この大会、モンティ(27才)は、代表キャプテンを
務めた。

1928年、アムステルダム五輪で、
アルゼンチンは、ウルグアイと決勝を戦い、
1-1で引き分けた。
その為、3日後に、再試合を行ったが
アルゼンチンは、1-2で敗れ、準優勝に終った。

写真、右が モンティ。

モンティは、
1920年代後半は、オリンピックで
「世界一」を懸けて戦い、
1930年代は、W杯1930、1934で、
2大会連続で、決勝戦に出場した。

彼は、「世界一を決める国際大会」で、
「3大会連続で決勝を戦った」というボランチ
である。

こんな選手はもう出て来ないだろう。

1918年、スペイン、バスク生まれ。

【所属クラブ】
1935ー1936  ビルバオ  22試合2得点
1938ー1939  エウスカディ
1939ー1952  サン・ロレンソ 325試合29得点
1952ー1956  ラ・コルーニャ  56試合2得点

スペイン・リーグ 優勝  1回(1936)

アルゼンチン・リーグ 優勝 1回(1946)


【スペイン代表】 
1936       2試合


【バスク代表】
1937ー1938    34試合

1936年、スビエタは、17才9カ月で、
スペイン代表に選ばれた。
これは「スペイン史上最年少デビュー」だった。
この記録は83年経つが、未だに破られていない
(2019年、現在)。

彼は、1935ー36年シーズン、17才で
ビルバオで、1軍デビューした。
この年、1年目からレギュラーを掴み、
主力として活躍し、ビルバオは「リーグ優勝」した。
そして、彼は、その活躍により、スペイン代表に選ばれた。

スビエタは、「17才で代表デビューした」、
天才選手だった。

写真、左が スビエタ(20才)
   右が ランガラ(26才)

スビエタは、10代で、リーグ優勝し、
代表にも選ばれ、順調であった。
しかし、リーグ優勝の2カ月後に、
スペインで内戦が起きた為、
翌年からリーグ戦が中止となり、3年も開催されなかった。
その為、彼は出国する事を決めた。
そして、1939年、
南米、「アルゼンチン・リーグ」に挑戦した。
彼は、当国のビッグクラブ、サン・ロレンソに
20才で入団した。1年目からレギュラーで、
27試合に先発した。
その後、13年間も、主力で活躍した。

彼は、海外、アルゼンチンでプロ生活を送り、
異国の地で、大成功した。

スビエタは、サン・ロレンソで「325試合」も
出場し、当時、「クラブ最多出場記録」を作った
(現在は、歴代3位)。
クラブのレジェンドとなった。

当時のチームメイトは、
「スビエタは、試合に出る事に執着していた。
監督が頼めば、スビエタは全試合でも出場しただろう。
彼は疲れを知らない男だった。
その結果、『クラブ最多試合出場』の記録を作った。
スビエタは、我々のチームでは守備的MFで
相手をマークし、潰すのが仕事だった」
と説明している。


左の写真には、スペイン語で、
「クラブ史において、偉大なキャプテン」
と書かれている。

スビエタは、キャプテンシーも持っている選手だった。

サンロレンソは1946年に国内リーグ優勝し、
欧州ツアーを行った。
スビエタ(28才)にとっては、
母国スペインへの「凱旋ツアー」となった。

戦績は、5勝4分1敗。
スビエタはスペイン代表に2回勝ち
(7―5、6ー1)、
ポルトガル代表にも勝利した(10ー4)。

スペインの新聞は
「サンロレンソは世界最高のチームだ」
と降参して、讃えた。

この当時、アルゼンチン・リーグは、
「世界一、レベルが高い」と評されていた。
その為、サン・ロレンソは欧州ツアーを行って、
大勝をした。

アルゼンチンで成功したスビエタは、
世界有数のボランチだった。

写真、左(選手)、スビエタ。

スペインのセビージャと対戦した時の、
試合前の模様。

この試合は、5-5で引き分けた。

写真は、
デポルティーボ・ラ・コルーニャ時代の、
スビエタ。

彼は、スペインで4シーズン、活動した後、
38才で、引退した。

スビエタは、第二次世界大戦が起きた時代を生きた。W杯中止の時代に遭遇した選手だ。
その為、彼はW杯に出場してない故、知名度が
低い。南米人はコパ・アメリカがあったが
スビエタは欧州人で、それにも出れなかった。
(アルゼンチン国籍を取り、代表選手になる道もあったにはあったが・・・。)

しかし、彼は、当時、欧州チームより遥かに強く、
世界最高だったアルゼンチン・リーグで
最も優秀なボランチの1人だった。
リーベル・プレートのロッシらと並び、
世界で有数の名選手だった。

スビエタは、アルゼンチンで「永遠」になった。

彼の出身地、バスク地方の旗をバックに、
肖像が描かれている。

80年前に在籍した選手で、外国人選手だったが
アルゼンチンでは、彼を称え続けている。

ちなみに、上記で紹介した、
イシドロ・ランガラ
(スビエタと一緒にサン・ロレンソ入団した)は
スビエタ以上に凄い選手である。
「スペイン史上最高のFW」である。
当時、世界一のFWだった。
「2人の天才、バスク人」が、スペインから、
アルゼンチン・クラブに入団した。
「才能流出」した訳だ。

彼らは、戦争がなければもっと有名で、
スペイン代表にも多大な貢献ができただろう。
残念な話である。

1917年、ウルグアイ生まれ。

彼は、モンテビオ・ワンデレス、ペニャロール、
ウルグアイ代表で活躍した。

バレラは身長183センチで、当時としては体格が
良く、また技術もある選手だった。
彼はキック力があり、ロング・シュートも得意としていた。
しかし、彼の最大の特徴は、
極めて優れたリーダーシップを持っていた事で、
その点においてウルグアイの歴代名手の中でも
飛び抜けていると評されている。

彼は、
「El Negro Jefe:ネグロ・ヘフェ(黒いボス)」
という愛称を持っていた。

彼は、ピークの長かった選手で、
1940年代に活躍したが
1950年代も引き続き、活躍した。

W杯1950の時は、32才で、主力として優勝した。
W杯1954は、36才で主力で参加し、
ウルグアイの全4試合中、3試合に先発出場した。

写真、右が バレラ。

W杯1950、ウルグアイ代表は、
決勝進出をし、地元、ブラジルと対戦した。
戦前の予想を覆し、ウルグアイが2-1で勝利した。

ブラジル国民は、
「代表チームが調子が良く、優勝を疑わない人
ばかりだった」為、
この敗戦のショックは甚大だった。

未だにブラジルでは、この敗戦は
「マラカナンの悲劇」として、
後世に伝え続けられている。

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