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大前田英五郎(おおまえだえいごろう)「江戸時代・侠客列伝 8」

江戸時代の侠客と言えば、斬った張ったはお手の物、腕っ節にものを言わせて、のし上がった者がほとんどだ。その結果、官憲に追われる、人の恨みを買う。あげく、非業の死を遂げることも多い。ところが、大前田英五郎だけは、若い頃は殺人事件を起こしてお尋ね者になるが少しも悪い評判が起たなかった。

更新日: 2019年05月19日

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「侠客」を辞書で引くと、〝江戸時代、強きをくじき弱きを助けることを主義とした人。町奴、博徒の親分。男だて。〟とある。江戸時代の士農工商の身分制社会の中で、彼らは時に体制からはみ出すアウトローとならざるをえなかった。

来栖崇良さん

大前田英五郎は、1793年(寛政5年)、上野国(現在の群馬県)勢多郡大前田村に生まれた。祖父は庄屋を務めたほどの家柄だったが、父親の久五郎は草相撲で鳴らし、身を持ち崩してやくざになった。

兄の要吉もばくち打ちだったから、英五郎がやくざになったのは当然の結果だろう。

一説では15歳で、父の縄張りを荒らした博徒と争い、最初の殺人を犯したという。

25歳の時、久宮の丈八という博徒と争い、これを殺したとも言われている。

更には、名古屋で目明かしの親分と金銭トラブルを起こし、親分の女房もろとも殺害したとか。

こう見てくると、かなり血なまぐさい事件を起こしているようだが、はっきりしたことはわからない。ともかく、官憲に追われて諸国を逃げ歩いていたことは確かである。

そうした逃亡中のことだろうか、尾張藩が江戸へ送った御用金を、箱根峠で強盗に奪われるという事件が起きた。


英五郎は、裏の世界の手蔓をたどり、盗賊の所在を突き止めると、これを斬って御用金を奪い返し、尾張藩に届けた。尾張藩は英五郎の罪を免除、褒賞を与えたという。

また、名古屋が大火に遭った時、子分を引き連れて城の防火に努め、殿様から名刀や陣羽織をもらい、お出入りを許されたという。

いずれもどこまで本当かわからないが、英五郎と尾張藩の濃厚な関係は読みとれる。


尾張藩の肩入れもあってか、英五郎は名古屋を中心に東海道から関東まで勢力を振るう大親分になった。

子どもの頃から「火の玉小僧」とあだ名されるほど敏捷で喧嘩に強く、長じては気っぷがよくて、背が高く、浅黒くしまった顔つきで、でっぷりと太った、いい貫禄の親分ぶりだったそうだ。暴れ者の国定忠治でさえ、「おじき」と呼んで、一目置いていた。



※画像は国定忠治

英五郎が得意としたのは喧嘩の仲裁である。

やくざ同志の喧嘩に出張っては双方をなだめ、無事におさめた。
そのため、「天下の和合人」と呼ばれた。


流血の雨が降るところを、英五郎に救われた侠客たちは、その謝礼に縄張りを差し出した。

その結果が、縄張り200カ所、3000人の子分となったのだ。

1874年(明治7年)、82歳で亡くなっている。

辻吉郎監督
「大前田英五郎」(1915年、尾上松之助出演)

高橋寿康監督
「大前田英五郎」(1927年、大河内伝次郎出演)

松田定次監督
「任侠清水港」(1957年、市川右太衛門出演)

佐々木康監督
「血闘水滸伝」(1959年、山形勲出演)

渡辺邦男監督
「長脇差忠臣蔵」(1962年、勝新太郎出演)

など。

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