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新門辰五郎(しんもんたつごろう)「江戸時代・侠客列伝 10」

江戸時代の侠客、あるいは博徒という者は、基本、アウトローである。ところが、新門辰五郎は「火消し」(とび職)というれっきとした稼業があり、しかも第15代将軍・徳川慶喜に愛され、幕末の英雄・勝海舟に信頼されていた。

更新日: 2019年05月19日

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「侠客」を辞書で引くと、〝江戸時代、強きをくじき弱きを助けることを主義とした人。町奴、博徒の親分。男だて。〟とある。江戸時代の士農工商の身分制社会の中で、彼らは時に体制からはみ出すアウトローとならざるをえなかった。

来栖崇良さん

新門辰五郎は、1797年(嘉永9年)、下谷山崎町の煙管職人の子として生まれ、幼名を金太郎といった。

1804年(文化元年)、12歳の時、弟子の火の不始末が元で火事を出してしまい、父親は「世間に申し訳ない」と、炎の中に身を投じてしまう。この日の出来事が金太郎に「火事は父の仇」という気持ちを刻み込み、火消しの世界に入るきっかけになったと思える。

そして、18歳の時、浅草十番組「を組」の組頭・町田仁右衛門のもとに身を寄せ、火消しとなった。

1821年(文政4年)、浅草花川戸の火事で、消し口を取った「を組」の纏を、立花家のお抱え火消しが倒してしまう事件が起こる。

明らかに、「を組」に先を越された大名火消し側の嫌がらせだった。

これに対し辰五郎は、お抱え火消しの纏持ちを、纏もろとも転落させてしまう。

あわや「を組」と大名火消しの喧嘩に、というところだったが、辰五郎の気迫に押されて大名火消し側はすごすごと引き下がった。

この事件で、辰五郎は男を上げ、すっかり江戸の人気者となり、そして、親方の仁右衛門の娘ぬいと結婚、町田家の跡目を継ぐことになる。

この辰五郎に惚れ込んだのが、上野大寺院の義観僧正だった。

彼は、辰五郎に浅草寺界隈の掃除方(取締方)を依頼、更に、一橋慶喜(後の15代将軍)に取りなして、近づきにさせた。


慶喜も辰五郎を気に入り、浅草伝法院の新門警護を命じる。


そのため辰五郎は、新門辰五郎を名乗るようになった。


辰五郎の勢力は、浅草を中心に拡大し、その名声は江戸の隅々にまで知れ渡れ、「を組」の火消し213人の他、彼の息のかかった子分は2000人に及んだと言われている。

1845年(弘化2年)、青山の大火で、またもや「を組」と有馬家お抱えの大名火消しの間で大喧嘩が起こり、死傷者25人を出す大事件となった。


辰五郎は子分の不始末の責任を取り、佃島牢獄につながれることになる。


ところが、翌年、小石川馬場の大火が起こり、猛火が佃島牢獄に迫ったとき、辰五郎は、牢仲間の小金井の小次郎という侠客とともに、類焼を食い止めて見せた。


その結果、町奉行から、「さすが火消しの頭」と誉められ、赦免される。

1863年(文久3年)、辰五郎は、一橋慶喜が西上するとき、歩兵屯所御用達として上京。
更に、慶喜が将軍となると、辰五郎も将軍家お雇い京都消防方となり、お目見え格に列せられた。

しかし、鳥羽・伏見の戦いで幕府方が敗れ、総軍慶喜は船で江戸に逃げてしまう。

残された辰五郎は、大阪城に置き忘れられていた徳川家の大金扇の馬じるしを、子分20数名とともに押し立てて、官軍がひしめく中を、一気に東海道を駆け下った。

江戸開城の時は、勝海舟に頼まれ、もし官軍との談判が決裂した場合、江戸を焼き払うという焦土作戦に協力、江戸中のとび職、火消し組の親分、博徒の親方、非人の頭、無頼の徒を組織し、非常時に備える。


結局、海舟と西郷隆盛の和平交渉はうまくいき、焦土戦術は実行されなかったが、海舟は辰五郎の人物を高く評価し、「俺の一番の友達になった」と言った。



その後、彰義隊戦争の時も、官軍の砲撃で燃え上がった寛永寺の消火につとめたり、慶喜が水戸、駿府へ移り謹慎したとき、その警護に当たったり、静岡県で製塩事業に協力したりしている。



1875年(明治8年)、新門辰五郎は浅草馬道の自宅で、78歳の生涯を閉じた。

東隆史監督
「新門辰五郎大江戸や闇の炎」(1933年、阪東妻三郎出演)

大曽根辰保監督
「大東京誕生大江戸の鐘」(1958年、近衛十四郎出演)

加藤泰監督
「炎のごとく」(大友柳太郎出演)
など。


テレビドラマでは

大河ドラマ「徳川慶喜」(1998年、堺正章出演)

大沢たかお主演の「仁」(2009年、中村敦夫出演)
など。

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