1981年
ラウダがレース界から去り2年経過していた同年シーズン終了の少し前、マクラーレンのロン・デニスとマールボロのジョン・ホーガンから、ドニントンパークでのMP4/1のテストに招かれた。テストランを経て11月にマクラーレンからラウダのF1への参戦が発表され、2年半ぶりに(翌1982年から)現役復帰することになった。「2年間、モーターレーシングに興味を示すことはなかった。でもオーストリアグランプリ(1981年)の時にふと気づいたら、(復帰を)考え込んでいた」とラウダは語っている。しかし、当時の航空業界は世界的な金融不況の直撃を受け、ラウダ航空の経営も順調ではなかったからという説もある。ラウダ航空はその頃、国営のオーストリア航空と路線認可の紛争も抱えていた。ラウダのヘルメットはそれまで赤一色であったが、この復帰以後はラウダ航空の旅客機の尾翼と同様の「(LAUDAの)L」をモチーフとしたデザインが施されていた。デニスはラウダとの契約時に、実業家とF1ドライバーの兼務となるリスク軽減の一策として「もしラウダが明白に(レーシングドライバーとしての)任務を果たしていない場合、開幕から4レースで降りてもらう」という一文を入れたいと要求し、ラウダは快諾している。

1982年
シーズン開幕前の走行では、ラウダがレースから離れている間にF1で普及したラジアルタイヤへの違和感もあったが、以前と同様にテストで走りこんで感覚を取り戻していった。また、ニュルブルクリンクでの事故の後遺症を克服するためにサポートを受けたトレーナー(ヴィリー・ダンクル)のメニューで体力作りを行い、開幕に備えた。第3戦アメリカ西グランプリで復帰後初勝利し、第9戦イギリスグランプリを含む2勝を挙げ、ランキング5位だった。

1983年
全15戦中、7戦をマシントラブルでリタイアし、ランキング10位。それでも第12戦オランダグランプリからTAGのスポンサーシップを得て、ポルシェ製1.5リッター・ターボV6エンジンを搭載したMP4/1Eに乗った。残りのレースは翌年への準備となった。

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オーストリア出身のレーシングドライバー、ニキ・ラウダのプロフィール・人物・家族・映画

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