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この記事は私がまとめました

ブラジル代表の歴代、攻撃的MF(10番)を紹介して行きます。W杯は、1950年大会から背番号制が始まった。また、ペレ以前は、エース番号が「10番」と確立されてませんでした。その為、 その時代は番号に関係なく「攻撃的MF、代表エース」を紹介してます(2名)。

rulliさん

ブラジル代表の歴代「10番」を紹介して行きます。       「ブラジルがプロ化 & W杯が始まった1930年代」から紹介して 行きます。

1911年、生まれ。

【主な所属クラブ】
1930-1934 サンパウロFC
1936-1941 パルメイラス  163試合123得点


【ブラジル代表】
1934-1938   11試合 4得点

W杯2回出場(1934、38)

1921年、生まれ。

【主な所属クラブ】
1939-1950 フラメンゴ  318試合146得点
1950-1957 バングー   274試合122得点
1957-1960 サンパウロFC  67試合 27得点  


【ブラジル代表】
1942-1957   53試合30得点

W杯1950 準優勝

コパ・アメリカ
 優勝  1回(1949)
 準優勝 4回(1945、46、53、57)

「コパ・アメリカ得点数 最多記録、17得点」
を持つ(2019年、現在)。
60年以上経っているが、未だ、破られていない。

彼は、ペレの少年時代のアイドルだった。

W杯1950で、ジジーニョは、準優勝した。

この大会、「背番号10番」は
ジャイール・ホーザ・ピントだった。
ジジーニョは、「8番」だった。

しかし、この時代、長らく
ブラジル代表のエース(司令塔)は
ジジーニョだった。

サッカーで、「エース番号が10番」と認識され
慣習・文化として確立した理由は、
「ペレが10番を付けて活躍した」為で
それ以前の時代は、そうではなかった。
故に、この「サイトのタイトル」通り、
背番号だけに固執し、
ジャイールを紹介するのが、筋かも知れないが
ジジーニョの方が評価が高い為、
彼を第一に紹介しています。
現代ならば、
ジジーニョが10番を付けたでしょう。

写真、左が ジジーニョ
   右が ペレ(サントスFC 所属)。

10代のペレと話す、ジジーニョ。
彼は、ペレのアイドルだった。

1921年、生まれ。

【主な所属クラブ】
1943-1946  バスコ     71試合27得点
1947-1949  フラメンゴ   87試合62得点
1949ー1955  パルメイラス  241試合71得点
1956-1960  サントス    196試合34得点


【ブラジル代表】
1940ー1956  39試合22得点


W杯1950 準優勝

コパ・アメリカ 
    優勝  1回(1949) & 得点王
    準優勝 2回(1945、46)

写真、一番右が ジャイール・ホーザ・ピント。
   一番左が ジジーニョ。
    中央が CF、アデミール。

ブラジル代表では
ジャイールが、左サイドの攻撃的MF。
ジジーニョが、右サイドの攻撃的MFだった。
2人は、今で言う所の、
「インサイド・ハーフ」と呼ぶに相応しい。
2人共、左右のサイドが違うだけで、
ポジションは同じであった。

1924年、生まれ。

【主な所属クラブ】
1944-1953  ポルトゲーザ 236試合168得点

1953-1961  バスコ・ダ・ガマ
               241試合123得点

【ブラジル代表】
1950-1955   17試合10得点

W杯1954に、出場した。

コパ・アメリカ 準優勝(1953)

写真、左が ピンガ。

ブラジルは、GL第1戦、メキシコと対戦し、
5-0で大勝した。
ピンガは、2得点を決め、活躍した。

ピンガのポジションは、
左サイドの攻撃的MFだった。

写真、右下が ピンガ。

ブラジルは、GL第2戦、ユーゴスラビアと対戦し
1-1で引き分けた。
ピンガは、無得点だった。

初戦では、ピンガは2得点の活躍をしたが、
第2戦は、無得点だった。
すると、次の準々決勝、ハンガリー戦で、
彼は先発を外された。
そして、ブラジルは2-4で敗れ、
ピンガのW杯は終了した。

1940年生まれ。

【所属クラブ】
1956ー1974  サントスFC  638試合 619得点

1975ー1977  ニューヨーク・コスモス
               64試合 37得点



【ブラジル代表】
1958-1971  92試合77得点(歴代1位)

《この77得点は48年経っても未だに破られていない[2019年現在〕》。


【主なタイトル】
W杯3回優勝(1958、1962、1970)

クラブ世界一2回(1962、63)

ブラジル王者5連覇(1961ー65)【サントスFC】

サンパウロ州リーグ、得点王11回
(17才から9年連続得点王記録も作った)。

ペレと言うと、盛んに「1000ゴール以上得点した」
(親善試合を含めた数字)と、
その並外れた得点能力が話題になるが、
彼はW杯で「最多アシスト」記録を持っている、
彼はれっきとした「パサー」でもあるのだ。
本当に彼は「10番」なのだ。

「得点も、アシストも最上レベル」の天才。
それがペレである。

ペレが引退して、約50年になるが(2019年、現在)、
未だに「W杯アシスト記録」は、破られていない。

ブラジル、アルゼンチンというのは名選手が本当によく出て来る国であるが、未だにクラシコの得点数でペレを超える選手が出て来ない。

それだけペレが大試合にとても強く偉大だという事だ。
ジーコ、ホマーリオ、ホナウド・ナザリオ、
ヒバウド、ホナウジーニョ、ネイマール、
マラドーナ、ケンペス、バティストゥータ、メッシなど両国に名選手が数多く生まれたが、
結局、誰もペレのクラシコ得点数を抜けなかった。

ペレは16才でブラジル代表デビューして、   「自分がこのレベルでやっていけるとすぐ確信した」
と述べた大天才。

プロ1年目、16才でデビューし、
1年目から得点王になるなんて、
本当にペレは「天才」ですね。
日本人はTBSの『消えた天才』とかいうバカ番組を
見て生きているので、本当の天才を知らない。
だから頭のとてもおかしい民族だと思います。
本当の天才は、プロ1年目で得点王で、
プロ2年目、17才で
(日本だと高校3年生、初夏)
W杯を主役で優勝してます。

ペレは、メッシというW杯優勝できない凡才とは、
違いますね。
その後、ペレはプロ・デビュー1年目から
「9年連続、得点王」の記録を作りました。
やっぱり、メッシとは格が大きく違いますね。

写真は試合前、
左がペレ(16才頃)、右が父親、ドンジーニョ。
まだ保護者同伴であった。

ペレは、「トルネオ・リオ・サンパウロ」
(リオとサンパウロ、2州中で、最強チームを決める大会)に参加し、公式戦デビュー。
「第1節、サンパウロ戦(1957年4月26日)」で
3-1で勝利し、1得点した。

また「サンパウロ州リーグ」では
1年目で得点王。
41得点(38試合)も決めた。
17才の誕生日の2カ月後、リーグ戦が終了した。

彼はまだ子供だったがブラジルで一番うまかった。
天才少年ペレは、「リーグ戦1年目から得点王」
という前代未聞の大活躍をした。
「最年少得点王記録」は未だに破られていない。

写真、左端が ペレ。シュートを撃った。

リオ・デ・ジャネイロのマラカナン・スタジアムで
行われた「コパ・ロカ」という、
両国の「定期戦の大会」に、ペレは出場した
(観客、8万人)。

後半から出場し、後半31分、同点ゴールを決めた。
しかし、その1分後、アルゼンチンが追加点を決め
試合は、1-2で敗れた。

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