1. まとめトップ

安倍総理が謝罪したハンセン病のこと

国が犯したたった一つのミスが、ある人たちの人生を悲惨なものにしました。本来なら普通の人と同じ人生を送れたはずでしたが、隔離政策によって差別された人生をおくることになっています。そして、家族にも同様の苦しみを与えることになりました。

更新日: 2019年07月26日

1 お気に入り 1183 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

国が犯したたった一つのミスが、ある人たちの人生を悲惨なものにしました。本来なら普通の人と同じ人生を送れたはずでしたが、隔離政策によって差別された人生をおくることになっています。そして、家族にも同様の苦しみを与えることになりました。

m.satoakiさん

7月9日 ハンセン病家族訴訟、控訴せず 国の賠償確定へ

ハンセン病患者の隔離政策による家族への差別被害を認め、国に損害賠償を命じた熊本地裁判決について、安倍晋三首相は9日、「家族の苦労を、長引かせない」として控訴しないと表明した。

7月25日 首相、ハンセン病家族に謝罪

安倍晋三首相は24日、国の敗訴が確定したハンセン病家族訴訟の原告・弁護団と官邸で面会し、「皆さまが強いられた苦難と苦痛に対し、首相として政府を代表して心から深くおわび申し上げます」と直接謝罪した。

「家族に謝罪」の意義

国の誤った隔離政策によって家族も偏見や差別に苦しみ、絆を引き裂かれた。その現実を直視した画期的な判決だ。

 国は、司法の判断を重く受け止めて謝罪し、救済に力を入れねばならない。

 ハンセン病患者の隔離政策で本人だけでなく家族も深刻な差別を受けたとして、元患者の家族561人が国を相手に損害賠償と謝罪を求めた訴訟判決で、熊本地裁は初めて国の責任を認め賠償を命じた。

 2001年の熊本地裁判決は、1996年に廃止された隔離政策を違憲と断じ、国に元患者への損害賠償を命じた。

 国は控訴を断念し、補償や生活支援に乗り出したが、対象は元患者に限られていた。家族については「残された課題」とされてきた。

「ハンセン病」とは

ハンセン病とは、らい菌(Mycobacterium leprae)に感染することにより、皮膚や神経に症状が現れる感染症のひとつです。
古くから存在している感染症の一種ですが、原因菌の感染力は非常に弱く、多くの方が自然免疫を持っているといわれています。

すでに治療方法も確立されており、後遺症を残すことなく完治することが期待できます。日本における新規患者数は毎年数例ですが 、世界では年間約21万人の新規患者が報告されています。

【皮膚症状】の出方は人によりさまざまです。以下は症状の一例です。
皮膚が赤くなる
皮膚が白くなる
皮膚が盛り上がる
結節けっせつが形成される
など

【神経症状】
皮膚に見た目の変化が生じている部分の感覚が鈍くなります。温度や痛みに対する感覚が障害されるため、たとえば、熱いものに触れても気付かずにやけどを起こすこともあります。また、脱毛が起こる場合や汗が出にくくなる場合もあります。

ハンセン病の歴史

古くは「日本書紀」や「今昔物語集」にも「らい」の記述があるといわれています。

 この病気にかかった者は、仕事ができなくなり、商家の奥座敷や、農家の離れ小屋で、ひっそりと世の中から隠れて暮らした。

ある者は家族への迷惑を心配し、放浪の旅に出る、いわゆる「放浪癩」と呼ばれる人がたくさんいました。

政府は1907年(明治40年)、「癩予防に関する件」という法律を制定し、「放浪癩」を療養所に入所させ、一般社会から隔離。

1929年 (昭和4年)には、各県が競ってハンセン病患者を見つけだし、強制的に入所させるという「無らい県運動」が進められました。

1931年(昭和6年)には「癩予防法」を成立させ、在宅の患者も療養所へ強制的に入所させる。

人々の間に「怖い病気」として定着

戦後1948年(昭和23年)に成立した「優生保護法」では、その対象としてハンセン病が明文化。

1953年(昭和28年)、患者たちの猛反対を押し切って「らい予防法」が成立。ハンセン病に対する偏見や差別をより一層助長した

1996年(平成8年)になってようやく「らい予防法」は廃止

⇒ 実際は、1947年には治療法が確立していた

終戦後の1947年から、日本の療養所でもアメリカから輸入したプロミンや東大の石館いしだて守三もりぞう教授の合成したプロミンの治療でハンセン病は治る病気になりました

ハンセン病療養所

2015年現在、日本国内にある国立ハンセン病療養所は全部で13カ所。

緑豊かな森、青々とした海に囲まれた療養所は、患者たちがかつておかれていた境遇、日本のハンセン病政策が抱えていた問題、人々がなんの疑問ももたずに抱いてしまいがちな差別という感情、こうしたものを教えてくれる、かけがえのない場所でもあるのです。

そのほとんどが入所者の高齢化、介護といった問題に直面しています。

「らい予防法」の廃止が遅れた理由

⇒ 視点1

日本では1947年にプロミンによる治療が始まり、治る病気になったにもかかわらず、国は療養所での生活や医療の改善の予算の確保を優先して、らい予防法を廃止しないで、強制的に隔離する政策を継続しました。

医師や弁護士も積極的に予防法廃止の声を上げませんでしたし、さらには私たち国民の無関心、あるいはハンセン病についての理解不足も、1907年の最初の法律の施行から1996年のらい予防法廃止までの90年間の長期にわたり、らい予防法による人権侵害を通用させました。

じつは病気が治った回復者のみなさんたちも、らい予防法の廃止により、生活の場である療養所が閉鎖されてしまうことを恐れました。

故郷との絆きづなも断たれていて、病気の後遺症もある、そしてまだまだ社会には根強いハンセン病への差別・偏見が残っていました。回復者のみなさんは、らい予防法の廃止を強く主張できない事情があったのです。

⇒ 視点2

隔離政策が、患者を隔離すると同時に、ハンセン病治療自体を隔離してしまっていたからなのです。

この閉鎖性こそが、一般の医療・研究機関からハンセン病という病気、患者への関心を遮断してしまい、惰性的に現状を肯定する療養所の幹部らによって、本来誤りを是正する主導的立場の学会が支配されたために、医学的に廃止されるべきという学説は学内で抹殺され、隔離政策は不要で廃止されるべきという世界の流れも無視し続けられていったのです。

立法根拠のない隔離政策が黙認される中で、戦後の経済成長がもたらす豊かな社会からは、新たに発症する患者が激減したことや、医療の向上によって治癒する病気となってからは、療養所生活を余儀なくされた人たちの運動を通じて療養所の処遇も年々向上していきました。

すると、予防法の廃止を躊躇させる考え方が生まれてきます。

入所者の処遇を保障し、改善していく予算を獲得するには、根拠として隔離条項をもつ予防法の存在を強調する必要があったことです。この強制隔離と処遇改善は表裏一体という論理を背景に、法廃止に向けた動きが停滞していった

処遇改善に努めた厚生官僚がいました。

大谷 藤郎(1924年3月27日 - 2010年12月7日)は、日本の元厚生官僚(テクノクラート)、大学教授。精神障害者やハンセン病患者の人権保護・待遇改善に積極的に取り組み、1993年にはWHOからレオン・ベルナール賞を授与された。

1952年(昭和27年)、京都大学医学部卒業(在学中は小笠原登に師事)。1959年(昭和29年)、旧厚生省に医系技官として入省した。

1962年(昭和37年)から精神衛生課に勤務し、全国精神障害者家族会連合会の創設支援、1965年(昭和40年)の精神衛生法の改正などに携わった。

1972年(昭和42年)に国立ハンセン病療養所課長に就任すると、ハンセン病入所者の生活環境改善に取り組んだ。

その後、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任し、1983年退官。

退官後も、財団法人藤楓協会理事長、高松宮記念ハンセン病資料館館長、国際医療福祉大学総長などを歴任。

1993年(平成5年)に、寄付金を募って高松宮記念ハンセン病資料館を開館させたほか、「らい予防法」の廃止を実現。

映画にもなった「砂の器」

1 2