1. まとめトップ

【オウム真理教】人を殺すのが修行だった

人は誰でも、ほんの少しボタンを掛け違えるだけで、道を見誤ることがあります。

更新日: 2019年07月30日

1 お気に入り 5388 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

人は誰でも、ほんの少しボタンを掛け違えるだけで、道を見誤ることがあります。

m.satoakiさん

「オウム真理教」とは

かつて存在した日本の(新興)宗教団体。

1988年から1995年にかけて、オウム真理教事件を引き起こし、1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴いオウム真理教という名称は消滅した。

破産とほぼ同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後にアーレフを経てAlephに改称され、また別の宗教団体であるひかりの輪、山田らの集団、ケロヨンクラブが分派した。

「オウム真理教事件」とは

オウム真理教の教祖である麻原彰晃(松本智津夫)が、宗教を隠れ蓑に日本を乗っ取って、自らその王として君臨することを空想し、それを現実化する過程で、世界各国での軍事訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行した。

世界史的に見ても、アルカイダやISILによるテロを先取りした事件である。

一連の事件で29人が死亡し(殺人26名、逮捕監禁致死1名、殺人未遂2名)負傷者は6000人を超えた。教団内でも判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名を超える。被害者の数や社会に与えた影響や裁判での複数の教団幹部への厳罰判決などから、「日本犯罪史において最悪の凶悪事件」とされている。

有名な3つの事件

⇒ 坂本堤弁護士一家殺害事件

1989年(平成元年)11月4日に旧オウム真理教の幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた弁護士であった坂本堤(当時33歳)と家族の3人を殺害した事件である

遺体が容疑者によって隠匿されたため、1995年9月に遺体が発見されるまでは失踪事件として扱われていた。

現場にオウム真理教のバッジが落ちていたが、神奈川県警は「事件性なし」として、捜査を行わなかった。犯行が明るみに出たのは、1995年(平成7年)9月、実行犯の一人、岡﨑一明が自首したことによる。

事件のきっかけ
「横浜法律事務所」に所属していた坂本堤弁護士は、出家信者の母親から息子のオウム真理教脱会について相談されたことがきっかけとなり、1989年(平成元年)5月からオウム真理教の反社会性を批判・追及していた。

ウム真理教代表者麻原彰晃(松本智津夫)は「坂本弁護士の活動は、今後の教団の発展の障害となる」と考え、信徒に彼の殺害を命じたとされる。

11月4日未明に自宅に侵入。端本が坂本堤に馬乗りになり、岡﨑が絞殺、新実が坂本の妻(当時29歳)を絞殺、中川が坂本の長男(当時1歳)の口をふさいで殺害した。

1995年(平成7年)地下鉄サリン事件が発生したのち、警察はオウム真理教の捜査を本格的に開始。

その中、岡﨑一明の自供により坂本の一家が殺害されていたことがわかった。

⇒ 松本サリン事件

1994年6月27日深夜、松本市北深志1丁目の住宅街で、オウム真理教の信徒が猛毒ガスのサリンをまき、8人が死亡、約600人が重軽症を負った。

裁判では、教団元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(59)が指示し、サリンの効き目を試した組織的な無差別テロと認定された。

戦争状態にない国において、サリンのような化学兵器クラスの毒物が一般市民に対して無差別に使用された世界初の事例であり、同じくオウム真理教による地下鉄サリン事件を除けばその後も類が無い。

また、無実の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった冤罪未遂事件・報道被害事件でもある。その背景には、ずさんな捜査を実施した警察とマスコミのなれ合いがあったとも言われる。

教団松本支部の土地取得にからむ訴訟で不利な判決を避けるため、地裁松本支部の裁判官官舎を狙うとともに、住宅街でばらまいてサリンの威力を試したとされる。

*無実の人が犯人扱いされました

7月3日午前9時、捜査本部は、記者会見で、「サリンと推定される物質を検出した」と発表した。ここで、マスコミはこの事件を「松本サリン事件」と名付けた。

サリンは、第一通報者の河野宅の周辺6ヶ所から検出された。
捜査本部は、定石的捜査として、河野から事情聴取を行った。

同日夜、河野の弁護士は、本人とのやりとりを録音したテープを公開、事件との関与を強く否定した。

だが、これ以降、長期間、河野は警察やマスコミからも白眼視され続けることになる。

取調官は、河野が調合を間違えたと話しているのを聞いた人がいると言った。
河野が、その本人に会わせろ、と要求すると、人権上、それはできないと逃げられた。
お前がやったんだろう、正直に吐け、と嚇す刑事もいた。

7月7日ころから、河野を犯人扱いする新聞記事、テレビ報道が始まった。

結局、河野は翌1995年(平成7年)3月20日の地下鉄サリン事件(12人死亡、14人重傷)が発生するまで疑惑の人物とされた。

⇒ 地下鉄サリン事件

1995年3月20日に、新興宗教団体であるオウム真理教が起こした毒ガスによる大量殺傷事件。

東京の帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄株式会社、東京メトロ)が運行する3路線5列車に、化学兵器である有機リン系の毒ガス、サリンを散布し死者13人、負傷者6千人以上という国内最悪の無差別テロ事件となった。

地下鉄日比谷線・丸ノ内線・千代田線の都心に向かう各列車に教団幹部が実行犯として乗り込み、サリンを入れたビニール袋を傘で突くなどして散布した。

事件は午前8時前後という出勤のピークとなる時間を狙い、地下鉄車内や駅構内という半ば密閉された環境で実行された。このため、地下鉄職員・乗客や救助者などに多数の死傷者を出した。

警視庁は 3月20日,この有毒ガスを猛毒の神経ガス,サリンと断定,陸上自衛隊は除染のため化学防護部隊を出動させた。

3月22日,警視庁は事件をオウム真理教の組織的犯行とみて,山梨県上九一色村の教団施設などを強制捜査,多量の化学薬品を押収し,1995年5月16日に麻原彰晃 (松本智津夫) 代表を逮捕した。

「オウム真理教」が伸張した理由・背景

教団元幹部たちの多くは、有名大学を出たエリートたちであった。

しかし、信者の大多数は、平均的な一般の人々であった。

私が面接したオウム信者たちも、取り立ててエリートということもなく、ハンナ・アーレントがナチスの高官であったアドルフ・アイヒマンを指して述べた「悪の凡庸さ」という言葉がしっくりと当てはまるような人々であった。

人間というものは、権威者から命じられると、驚くほど素直に服従し、しかも残酷になれるということが明らかにされた。

教団の人々は、真摯に人生の意味を求道しているのに対し、それ以外の人々は、何も考えていないミジンコ程度の存在だという考えを持つに至る。

これらの手記は、エーリッヒ・フロムが、ナチスドイツとそれを熱狂的に支持した当時のドイツ国民の心理を分析した内容を彷彿とさせるものがある。

ドイツの人々は、「自由」に伴う恐怖や不安に耐えられず、そこからの「逃走」を図った挙句、ナチスに服従して束縛されることを求めたのである。

彼らが選んだのは、自分で主体的に答えを見つけるという道ではなく、権威に服従して、答えをもらうことだった

幹部にはエリートが集まっていた

1