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あいちトリエンナーレ、開催都市内から国家レベルへと政治的な議論へ発展

この展示会に関して特筆すべきことは、展示をめぐる論争が、開催都市内から国家レベルへと政治的な議論へ発展していったことである。1995年からドイツやオーストリア各地で開催した「ドイツ国防軍の犯罪展 」、このパネル展は、賛否両論を呼び、世論を二分するほどの社会現象となった。

更新日: 2019年08月04日

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345tyanさん

〇「ドイツ国防軍の犯罪展 」によって「国防軍潔癖」神話崩壊

戦後のドイツは、戦時中のドイツ社会全体がナチスに組み込まれていたため、ナチスとその追随者の範囲を極めて狭く定義しなければ、国内的には国家・社会として再建が不可能であり、従って多くの国民が関与した国防軍も除外されていた。

それどころか、冷戦という国際状況の急激な変化のもと、両ドイツは急速な国家建設と再軍備の必要に迫られ、例えば西ドイツでは連邦軍が創設されるにいたる。しかし、急激に編成されたため、日本と同様に旧国防軍の将校が多く参画することになり、国防軍の「過去」との対峙はタブーとならざるを得なかった。

従って、この展示会は、単に「国防軍神話」を崩壊させ連邦軍の歴史的正当性に疑問を投げ掛けただけではなく、国防軍に籍を置いた約2000 万人の一般ドイツ人の犯罪への関与にも波及していった。

国防軍➡ドイツ国防軍(ドイツこくぼうぐん、ドイツ語: Wehrmacht)は、1935年から1945年にかけて存在したドイツの武力組織である陸軍、海軍、空軍の三軍の総体を指す。

ドイツ連邦軍➡(ドイツれんぽうぐん、独: Bundeswehr ブンデスヴェーア)は、ドイツ連邦共和国の陸軍、海軍、空軍および戦力基盤軍、救護業務軍の総体を指す。創設は1955年

旧ドイツ軍人の間では「ドイツ国防軍は、国家への義務を果たすべく東部戦線で勇敢に戦った。恥ずべき犯罪行為は主としてSSによって為されたものであり、ドイツ国防軍の積極的な関与はなかった」と言う「国防軍潔癖神話」が流布していた。

冷戦の終焉による戦争犯罪の記憶の再生の波は、西ドイツの再軍備に際してアデナウアー政府や高級将校らによって捏造された「清廉潔白な国防軍」神話にまで及んだ。ハンブルク社会問題研究所によるパネル展「絶滅戦争 国防軍の犯罪一九四一〜一九四四」がそれである。このパネル展は、これまで西ドイツ社会で封印されてきたドイツ軍の第二次世界大戦中の「東部戦線」での犯罪行為をテーマとしたものであり、一九九五年三月にハンブルクでの最初の展示を皮切りに、ドイツ各地で展示がなされた。とりわけ世論の関心を呼んだのが、「清廉潔白な国防軍」が実際には大量のユダヤ人を東部戦線で組織的に虐殺していた事実であった。そこでは、将軍たちは「ヒトラーの政策の道具」ではなく、「同盟パートナー」であった事実が暴露され。このパネル展は、賛否両論を呼び、世論を二分するほどの社会現象となった。

引用(PDF:戦後ドイツにおける戦争の記憶と現在)より

▶『国防軍犯罪展』について

(1)これまでの国防軍認識

「栄光の国防軍」に、ナチス時代の「善良で無垢な存在」

敗戦直後のドイツにおいては、ニュルンベルク裁判が国防軍の犯した戦争犯罪は認知しつつ、親衛隊のように「犯罪組織」として断罪・認定しなかったこともあり、国防軍に対するイメージはそれ程悪いものではなかった。

冷戦が始まると、コンラート・アデナウアー(Konrad Adenauer)首相によって、西ドイツの連邦軍として再建されるとともに、NATOに加盟する必要上から、「栄光の国防軍」の「神話」が確立されることになる。一方、一般国民の間でも、マンシュタイン等高級将校の回想録や、壮絶な犠牲的戦闘を描いた戦記の刊行、戦争映画を通して、アデナウアーによって作られた像はより強化されていくことになる。

その後しばらくして、ヒトラー暗殺未遂事件の関係者等によって事件の継承を訴える運動が展開され、その結果ベルリン議会の決定をへて1989 年「ドイツ抵抗運動記念館」が開館するにいたる。これにより、「栄光の国防軍」に、ナチス時代の「善良で無垢な存在」としての位置付けが加わることになる。

記念館は、首謀者のシュタウフェンベルク大佐の勤務場所であったベルリンの旧陸軍最高司令部跡に設けられ、東ドイツと異なり、軍人の他、教会、労働者、共産主義者等を含めナチスに対する各層の抵抗運動を包括的に展示するとともに、犠牲者を追悼する地ともなっている。しかし、軍人によるヒトラー暗殺未遂事件に圧倒的な比重が置かれており、「白バラ運動」として著名なショル兄弟の存在も凌駕する程であった。世論調査でも、81 パーセントが彼等を愛国者(14 パーセント:裏切り者)として高く評価していた。

学会においては、1960 年代までのナチズム研究は、社会史学台頭の影響もあり、事実探求というよりは「全体主義論」といった理論研究が盛んであり、従って軍事に関してほとんど関心は向けられなかった。数少ない「純軍事史家」は、ドイツ軍将校の回想録等に依拠しつつ、そのイデオロギーや犯罪というより、特に西方戦線の、戦術・戦略・指揮統率・兵站に焦点があてられた「プロフェッショナルな軍人」に関する研究が進展した。

70年代に入ると、対ソ戦を中心とする東部戦線における殲滅戦への国防軍の関与が、特に、上はナチスに傾倒した高級将校から、下は思想教育を徹底して受けた一般兵士にいたるまで、そのナチス・イデオロギーに感化された国防軍の観点から、ナチスの政策実現の為の道具となっていったというように、ナチス犯罪への関与を認める研究、すなわち「イデオロギー的な軍人」の解明が着手され始めた。

上記の研究で残されていたのは、ホロコーストにおける国防軍の役割であったが、近年の研究は、大規模にホロコーストに参画していたことを明らかにしている。ただし、そのメカニズムについては未解明の部分があり、ユダヤ人虐殺に関し純粋に組織的な犯罪集団(「ジェノサイドの軍人」)であるか否かは議論が分かれている。

(2)巡回展示の内容とその経過

「国防軍神話」は戦後50 年にして、大きな挑戦を受ける

このように、学会における国防軍の残虐行為への関与に関する研究にもかかわらず、ドイツにおける国民の有する国防軍に対する「神話」は不変であり、その乖離が埋まることはなかった。しかし、「国防軍神話」は戦後50 年にして、大きな挑戦を受けることになった。

それは、1995 年3月民間のハンブルク社会研究所によって始められた「絶滅戦争-国防軍の犯罪 1941 ~1944 年」(Vernichtungskrieg. Verbrechen der Wehrmacht 1941-1944)と題した巡回展示を契機としてである。この巡回展示は、戦後50 年、今世紀残り5年を記念して、20世紀における暴力の歴史を回顧するプロジェクトの一環として企画されたもので、国防軍の絶滅戦争・ホロコーストへの組織的・積極的関与を明らかにすることを目的としていた。

その構成(対象)は、1)バルカン半島におけるパルチザン掃討戦と民衆虐殺、2)スターリングラード攻略に従事した南方軍隷下・第6軍のウクライナ地域での作戦行動と占領地行政、3)ベラルーシにおける中央軍の作戦行動と占領地行政、であった。

800枚を越す写真、世界各地から収集された未発掘のものを含むドイツ軍公文書、軍事郵便、兵士の手紙などが展示されているが、特に数多くのパルチザンの処刑、累々たる死体、嬉々として残虐行為に従事するドイツ軍兵士達を撮影した写真は、極めてショッキングなものとなっている。

「国防軍神話」の終焉は、前述のように学会においては既に周知の事実であったが、一般の国民にはあまり知られていなかったため、大きな反響を生むことになる。1970 年代に放映され反響を呼んだテレビ番組「ホロコースト」や最近のスピルバーグの映画「シンドラーのリスト」に象徴されるように、絶滅収容所おける毒ガス等によるユダヤ人の組織的大量虐殺は広く知れ渡っていたが、戦闘行動において、親衛隊や秘密警察はもちろん国防軍によってなされた銃殺・絞首刑・暴力等の通常の手段による殺戮は、見過ごされ忘却されてきたのである。

この巡回展示は、1999年秋までに33都市(ベルリン、ミュンヘン、ハンブルク、ブレーメン、ウィーン等)・86万人の観客を動員するにいたり、現代史を扱った最近の展示会では最も成功したものとなった。1997年には国際人権連盟より賞を受賞している。

訪問者の内訳では、若者と同時に、軍隊経験を有する高齢者も多数含まれている点が特徴的である。

この展示会に関して特筆すべきことは、展示をめぐる論争が、開催都市内から国家レベルへと政治的な議論へ発展していったことである。ネオナチも交え左右両派が激しく対立した保守色の強いミュンヘンでの開催を契機に、この傾向が強まり、1997年3月13日の連邦議会において頂点を迎えることになる。当初賛否をめぐる型通りの議論がなされたが、徐々に個人的な体験も交えた、お互いに本心を吐露する異例の展開も散見された。

連邦議会においては、国防軍の関与について討議がなされ、一部は戦争犯罪に関与したことは認めつつ、「国防軍に属していた兵士達への、一面的で総括的な断罪は断固反対する」との連立与党のキリスト教民主同盟・同社会同盟・自由党が提出した決議案が、賛成多数で可決された。他方、社会民主党及び緑の党が提出していた「国防軍は組織としてナチスの犯罪に関与した」との決議案は否定されたのである。その結果、ボンで予定されていた展示会については、連邦議会を会場としないことが採択されたのである。

一方、フォルカー・リューエ(Volker Rühe)国防相は、英雄化も断罪も排したうえで、一部犯罪に関与した国防軍の存在を認めつつ、その点は連邦軍の伝統とはなり得ず、又連邦軍としても責任はないと「集団的罪責論」を否定したのである。

戦争中、終始東部戦線で戦った経験を持つヴァイツゼッカー元大統領は、以下のように述べている。

悪の勢力の間にあってそこだけが無傷な、礼節な、全体として完全な国防軍などありえない。しかし、これには二つの注釈を付ける必要がある。一つは、国防軍の犯罪は確かにあったが、「犯罪的な国防軍」というのは全く別問題、誤りであり、区別する必要がある。そうしなければ、個人的なもののはずの罪責の有無を集団的に判断することになる。もう一つは、戦争が(具体的状況下にあって)もたらす、途方も無い事態を直視しようという個々の人間の心構えがあって、展示に対する正確な認識が初めて可能となる

同様な経験を持つシュミット元首相も、以下のように展示を批判していた。

我々は漸く第三帝国で唯一つの礼節な団体(国防軍のこと―引用者注)に入れた。・・・当時我々はユダヤ人虐殺について、全く知らなかったし聞いたこともなかった。・・・1900万人の兵士を犯罪組織の一員と見做すことは、二つの危険な反応をもたらすだけである。第一に、青少年に対しドイツ史に関して誤った印象を与えかねない。第二に、一般の人々までも、こういった展示に激しく反発せざるを得ないところに追いやる恐れがあり、これこそ何よりも危険である。なぜなら、ナショナリズムは死に絶えていないからである。・・・私は、事実が明らかにされ、道徳的な観点から判断がなされることには賛成である。しかし、始めから1900万人すべてを一括して中傷、さもなくば彼等の子供達にあなた方の親には罪があると信じさせるやり方では、展示の当初の目的を果たすことは全く出来ない。

両氏の発言は、国防軍による犯罪の一般化、及びそれにより「無垢な国防軍」神話が完全に崩壊することへの懸念を如実に表していると言えよう。

(3)展示の問題点とその見直し

ソ連による偽造、撮影場所の不明、写真説明の曖昧さ

このように、この巡回展示は多くの論議を引き起こしたが、展示に対する批判を通じて明らかになった展示の問題点として以下の点が指摘できる。第一は、展示された写真の信憑性の問題であり、批判の多くもこの点に関してなされた。ソ連による偽造、撮影場所の不明、写真説明の曖昧さ(同じ現場を撮った別の写真に異なった解説がなされているなど)といったことが指摘された。

第二に、副題が「国防軍の犯罪」とされていることが物語るように、ごくわずかな一部の犯罪への関与をもって、国防軍全体へと一般化することへの批判である。特に、一般化されると、国防軍の犯罪に焦点をあてることは、国防軍に意図せず偶然属していたとしても、潜在的には一般のドイツ人による犯罪へと波及することになるのである。第二次世界大戦中の国防軍は、一般兵役義務制のもと、実に約2000 万人が従軍しており、従って国防軍をめぐる議論は、より国民的な性格を持ち、「集団的罪責論」とも密接に関わっていくことになる。

第三に、それは戦争犯罪ではなく、パルチザンの攻撃に対する報復であり国際法の「戦時法規」から見て合法であるとの主張である。

第四に、写真の問題とも関連するが、多くは国防軍ではなく親衛隊やゲシュタポによる所業の展示であるとの主張である。これに対して、ドイツユダヤ人評議会議長のイグナツ・ブービス(Ignatz Bubis)は、「重要なのは、ドイツ人犯罪者の着ている制服の種類ではなく、彼等がドイツ人であるという事実だ」と反論していた。

第五に、展示は、どこにでもある戦争での出来事の描写に過ぎず、異常な状況下人間同士が大量に殺し合う「これが戦争だ」といった主張である。しかし、東部戦線において展開された、ドイツの「生存圏」を樹立するために民族を殲滅するという「絶滅戦争」は、西方・北方戦線のような単なる戦争ではないとの反論もなされた。ここで興味深いのは、第二次世界大戦に従軍した当事者の間で、記憶に相違が存する点である。ある者は、嘘の中傷だと非難したり、パルチザン戦における自身の苦い体験を語り、一方、この展示はすべて正しく、私はこれらを実際見聞したと主張する人もいたのである。

又、国防軍の犯罪をめぐる議論は、多くのドイツ国民が国防軍に属していたこともあり、父、祖父、伯父、兄弟といった親類も犯罪に関与していたのではないかとの議論に自動的につながっていった。人々は、親類縁者の写真を探しに会場に足を運び、実際ある女性は、パルチザンの処刑を微笑みながら眺めている父の写真を見出していた。戦後ドイツにおいては、学校教育でナチスのことを知った青少年の、「私達は何も知らなかった」と弁解する親の世代に対する不信感が生まれ、家庭内で葛藤が繰り広げられる現象もしばしば見られたのである。

ドイツ軍の犯罪と認められるのは 10 パーセント

1999年10月、巡回展示は二人の外国人を含む三人の研究者が展示写真の信憑性に関して発表した批判論文により大きな転機を迎えることになる。

先ず、ワルシャワのドイツ歴史研究所の研究員ボグダン・ムジアル(Bogdan Musial)は、目撃証言などから、9点はドイツ軍によるものではなく、うち1点はソ連内務人民委員部がウクライナにおいて撤退前に行なった700人の虐殺事件のものであると指摘した。それは、ソ連内務人民委員のベリヤが独ソ戦勃発直後出した、ソ連西部に拘禁中の20 万人の政治犯(のちにドイツ軍によって一部は解放)のうち「反革命分子」は抹殺せよとの極秘指令によるものであった。この指令により殺された者は最低数千人、さらにソ連軍によっても万単位の虐殺行為がなされたのである(逆に、これがドイツ側のソ連に対する大量虐殺の口実にもなった)。そしてドイツ軍が撮ったこの虐殺現場の写真が、戦後ソ連の「ファシストの侵略による犯罪究明国家特別委員会」の手に渡り、ナチスの残虐性を暴露する宣伝の材料に使われが、こうした利用は、ポーランド軍捕虜虐殺のケースにも見られた。結論としてムジアルは、詳細を検討せずにドイツ軍と断定した主催者の姿勢を批判したのである。

ハンガリーの歴史家クリスチャン・ウングヴァリー(Krisztián Ungváry)は、展示されている801 枚の写真のうち半分以上は犯罪を示したものではなく、更に63 枚は単なる戦闘行動であると分析した。そして残り333枚の死体もしくは犯罪を示していると思われる写真のうち、85枚は加害者が特定できず、62枚は説明文に間違いがあり、71枚は、明らかにドイツ軍の犯罪ではなく(親衛隊、ソ連軍、外国の同盟軍によるもの)、結果的に明らかにドイツ軍の犯罪と認められるのは 10 パーセントにすぎないと指摘した。

例えば、ドイツ軍が駐留していなかったハンガリーのある都市における、ハンガリーの裁判所が下した反逆罪による処刑も、ドイツ軍の所業とされ、又異なった角度から撮られた同じ現場の写真 11 枚が全く別の事例として取り扱われたりしていた。

ウングヴァリーも、写真の出所に関する研究の不十分さ、「偽造」ではないかという意識の欠如、そして誤解を招いた不確かな説明文を批判した。

最後にドイツ人歴史家のディーター・ノイハウス(Dieter Neuhaus)は、第6軍の犯罪とされたタルノポル(Tarnopol)近郊の4枚の写真のうち3枚はソ連軍によるものであり(当時第6軍はそこから100 キロ西方手前の地点までしか到達していなかった)、又ミンスクの写真は、ドイツの脱走兵の写真を修正したものであると指摘した。

当初ハンブルク社会研究所は、この種の批判を根拠がないと黙殺するとともに、ムジカルに対しては中傷に近い言明までなされていたが、権威ある学術雑誌に3本の論文が掲載されるに至り、11月4日、米国などでも予定されていた展示会を中止し、3ヵ月かけて全写真を再検討することを決めた。

当該分野の第一線の専門家からなる学術委員会が組織され、問題になった写真だけでなく、展示に使用されたすべての材料の検討に着手したのである。委員会はこれまで5回開催され、ムジカル、ウングヴァリー両氏に加え、研究所の展示責任者も招き相互の意見聴取を行なったが、作業は予定の3ヵ月を越え長期化することとなり、巡回展示の再開は2000 年後半が予定されている。現在のところ新たな展示では、従来のものでは明確に区別されていなかった加害者と共犯者、及び責任と国際法に関してはっきりと定義したうえで、当時の各々の行為が犯罪か否かを判断・区別するとともに、展示に関する議論を扱うセクションを設けることが決定されている。

引用(PDF:統一ドイツにおける「過去」の展示と歴史認識)より

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