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カイウラニとは

カイウラニ(英語全名:Victoria Kawekiu Lunalilo Kalaninuiahilapalapa Kaʻiulani Cleghorn, 1875年10月16日 - 1899年5月6日)はハワイ王国の王女。

カイウラニの幼少期

カイウラニは1875年10月、カラカウア王の末の妹にあたるリケリケ王女と、スコットランド人アーチボルト・クレグホーンの一人娘として生まれました。カラカウア王は姪の誕生を心から喜び、ホノルル中、全ての教会の鐘を鳴らして祝ったとか。

プリンセス・カイウラニは幸せな幼少期を過ごしました。中でも、スコットランド人の有名作家ロバート・ルイース・スティーブンソンの「お話」をバニアン・ツリーの下のベンチに座って聞くのが彼女の一番の楽しみでした。二人の日課は、バニアン・ツリーの下でスティーブンソンが世界旅行をした時の冒険ストーリーを聞いた後、アイナハウの敷地内を散歩し、彼女の家の美しいお庭で飼っているクジャクに餌をあげることでした。彼女は「孔雀の王女」と呼ばれるほどクジャクが大好きで、敷地内には50匹以上のクジャクを飼育しておりました。

日本皇室との縁談

19世紀半ばあたりから、アメリカを始め多くの国々が捕鯨や貿易に重要な位置にあるハワイへの勢力を強めてきた。脅威を感じたカラカウア王は、以前から移民を受け入れていた日本に救いを求め、1881年に日本を訪問。

赤坂離宮で明治天皇と会談、そして日本皇室とハワイ王室の縁談を申し入れました。5歳の姪のカイウラニ王女と13歳の山階宮定麿王との縁談です。

ハワイの王室と日本の皇室が親戚関係になる・・・あまり現実的とは思えないが、白人からの脅威を感じていたカラカウアにとっては、苦肉の策だったのだろう。

しかしこの時代、日本は明治維新があって13年後、西洋文化を取り入れる時期で明治天皇は「国力増強に努めている明治新政府にはそこまでの余力はない」として縁組は実現しませんでした。

イギリス留学と王位継承権第1位指名

将来の女王としての教養を身に付けるべく1889年、13歳の若さで渡英。汽船と大陸横断鉄道を乗り継ぎ、更にニューヨークから大西洋を渡りリバプールへ。ホノルルからロンドンまでの道のりは1カ月余を要しました。

1891年にカラカウア王が渡米先のサンフランシスコで客死。王の妹のリリウオカラニ(カイウラニの叔母)が女王として即位すると、子供に恵まれなかったリリウオカラニ女王はカイウラニを王位継承権第1位に指名しました。

ハワイ王国滅亡と…

1893年、渡英4年が過ぎカイウラニ王女が17歳になったころ、欧米系住民によるクーデターが起こりハワイ王国が滅亡します。カイウラニ王女はすぐに父とともにアメリカ東海岸に渡り、グロバー・クリーブランドアメリカ大統領との面談に成功し、クーデターの不当性、無効を訴えます。

このとき、ニューヨーク港では、『野蛮なハワイ人の娘』が嘆願にやってくるらしいと新聞記者たちが待ち構えますが、カイウラニが現れるとそのたぐいまれな美貌とヨーロッパ仕込みの洗練された姿と感動的なスピーチに、記者たちは度肝を抜かれたといわれます。
 
ハワイに対するイメージは一新し、ニューヨークのマスコミは一気にハワイ王朝の味方になり、大統領も徹底調査する約束をしました。アメリカ調査団はクーデターを不当とし、リリウオカラニ女王に一度は政権が戻されますが、欧米系住民はそれをはねのけ、1893年にハワイ共和国を設立。鎮圧されたリリウオカラニは反逆罪で逮捕され、8ヶ月にわたってイオラニ宮殿に幽閉されます。

ハワイに戻れないままカイウラニ王女はヨーロッパを放浪。社交界で歓迎、求婚されますが、日本皇族かハワイ王族のみの結婚しか認めないという叔母女王リリウオカラニの言葉を守り続けます。22歳になったとき、ついにアメリカがハワイを併合。1897年11月、王朝の復活が消えると、カイウラニ王女は8年ぶりにハワイに帰国しました。

1899年、カイウラニは友人と乗馬を楽しんでいる途中嵐に遭い、風邪をこじらせ、23歳の若さでこの世を去りました。

カイウラニの自宅の庭に咲き誇っていたという。

プリンセスが亡くなった夜、マツリカがたくさん咲いて甘い香りが漂う庭で、プリンセスの可愛がっていた孔雀たちが、とても悲しそうに鳴いていた、という言い伝えがあります。
その言い伝えにちなんで、マツリカの花を、「ピカケ(ハワイ語で孔雀の意味)」と呼ぶようになったのだとか。

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