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1853年、ペリー来航!黒船フィーバーに沸いた日本列島の様子

歴史上の大きな事件として有名な江戸時代の黒船来航ですがテレビもインターネットもない時代に日本国内ではどのような捉え方をされたのでしょうか?当時のようすをまとめてみました。

更新日: 2019年08月19日

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1853年、黒船来航

1853年、アメリカのマシュー・ペリーが率いる4隻の黒船が浦賀(神奈川県、三浦半島)に来航しました。

アメリカ大統領の親書を幕府に渡しにきたペリー総督

アメリカ捕鯨船の寄港地として日本の港を使わせてくれ、という内容のものだった。

そして彼らの目的は、総砲門数73の
強力な艦隊で幕府を威圧し、大統領国書を受理させ、開港を迫ることであった。

彼の最大の目的は、日本を開国させて捕鯨船の拠点として活用することでした。

初めて蒸気船を見た日本人は大騒ぎに

黒船とは、日本に来航した欧米の蒸気船のことです。
当時の日本人はまだ蒸気船を知らなかったので、江戸の街は大騒ぎになりました。

やってきた黒船は剛鉄でできた蒸気機関船。
日本の大型船の約19倍の大きさでした。

蒸気船をひと目見ようと浦賀には大量の見物人がやってきた

鎖国体制下「外異」を知ることを許されなかった民衆は、幕府の禁令を無視し、老若男女、子どもまで黒船を一目見ようと押しかけ、中には遠眼鏡で異人を覗く者までいた.

@phagetypet40 黒船のときは、見物人が殺到したそうです。それ目当てに店も出たとか。

あの吉田松陰も黒船来航時25時間後に見物に駆け付けていた

吉田松陰(よしだしょういん)

幕末の思想家、教育者。
松下村塾という私塾を開き高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら多くの門人を育てた。
のちに幕府から危険人物と見なされ安政の大獄で刑死する。

来航翌日には浦賀は見物人が集まり始め、翌々日には江戸からも見物客が殺到した。
佐久間象山や吉田松陰も見物に赴いている。

黒船の来航から25時間後に見物に行った吉田松陰は、「地元の人も心配はしているようだが、騒いでいる様子はない」と、日記に記している。

大勢の見物人により浦賀は観光地のように賑わった

黒船の放つ空砲も、最初は驚いたが害がないとわかると庶民は花火のように楽しんだ。

ペリー艦隊が停泊した浦賀では黒船をひと目見ようと見物人が集まり、さながら観光地のよう賑わいとなったそうです。

庶民の多くは、大きくて速い黒船を、龍のようだと思い、心底「かっこいい」と感じたのである。
だから、黒船を一目見ようと、沿岸には見物客が詰め掛けた。

@0n0w ペリーが見たい! 「恐怖の黒船」なのに見物人びっしり t.asahi.com/o7sm

小舟で黒船に近づきコミニュケーションを図る者たちも現れた

すごい行動力。
いつの時代も好奇心に身をゆだねて行動する人はいるのです。

小舟を漕いで黒船のそばへ行き、乗員との物々交換をしようとしたり、外国人相手に商売を始める者もいたようで、後に幕府が黒船の『見物禁止令』を発布するほど見物人があとを立たなかったようだ。

ペリー来航は飛脚によって伝えられ翌週には関西圏でも噂になっていた

東京~大阪間を約4日で移動した飛脚。
当時の情報伝達の中心的存在だった。

自動車も電車もなかった江戸時代ですが、飛脚によって江戸と大阪間は最短で3日半で情報が伝達されたそうです。
ちなみに、ペリーの黒船来航も「翌週には関西圏まで噂が届いていた」といわれています。

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