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なぜ「たいしん」ではなく「うずまさ」と読む?太秦に関わる不思議なルーツや伝説とは?

地元の人ではないとすんなり読むことが難しい京都太秦(うずまさ)。この太秦は、エルサレム教団の首長を意味する称号であると同時に、ローマ帝国の出身であることを表します。それだけでも不思議なわけですが、その由来はヘブライ語にさかのぼることで見えてきます。

更新日: 2019年08月30日

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egawomsieteさん

■太秦とは

京都市右京区の一地区。旧村名。 1931年京都市に編入。地名は,朝鮮半島から渡来した秦 (はた) 一族がここに住んでいたことに由来。弥勒菩薩で有名な広隆寺がある。西高瀬川沿いには江戸時代以来,製材所が多い。

・「イシュ・マシャ」ではないか

東京文理大学の学長をつとめた佐伯好郎教授は、それはヘブライ語の「イシュ・マシャ」に由来すると言っています。「イシュ」とは「イエス」のことであり、「マシャ」は「メシヤ」。つまり、「イエス・メシヤ」、「イエス・キリスト」という意味だというのです。

■豪族・秦氏の縁で「太秦」が「うずまさ」に

太とは拠点の意味で、朝鮮半島から渡来した秦氏の拠点=太だったから太秦。だが、これをなぜ「うずまさ」と読むのだろうか?

そもそも秦氏は機織りの技術者集団で、絹布を大和朝廷に対する租税としていた。このため、この地には絹布が「うず高く」積み上げられ、朝廷から「兎豆満佐(うずまさ)」の姓を与えられた。この「うずまさ」を太秦の文字に当てたというのが定説だ。

太秦の地名は大阪府寝屋川市にもあるが、これも京都同様の地名由来を持つと考えられている。秦氏の勢力は日本全国に及んだとされ、神奈川県の秦野(はだの)市なども秦氏由来の地名とされる。

■太秦がウズマサと呼ばれた所以

広隆寺のルーツが景教にあることの決定的な理由が、「太秦」という漢字と、読みです。日本語の「太秦」は「ローマ国教」を意味する「大秦景教」の「大秦」に由来すると考えられますが、何故「ウズマサ」と呼ぶようになり、自らの本拠地の地名として使うまで重要視したのでしょうか。

日本書紀や新撰姓氏録によると、秦酒公が朝廷に税を献上する際に、絹を「うず高く積み上げた」ことに感動した天皇が、「兔豆母利麻佐(うつもりまさ)」という姓を秦氏に与えたのがその由来であり、また、続日本紀には、聖武天皇の時代、恭仁京を造営する際に築いた大宮垣の褒美として「太秦」の称号が与えられたと記載されています。

実は「兔豆母利麻佐」という言葉は、「ウツァ・モリッ・マシャ」というヘブライ語に当てた字で、「大辟大明神」と同じ意味があります。まず(hutsa、フゥツァ)が「(命を)取られる」という意味の言葉であることに注目です。その発音は「ウツァ」とも聞こえ(hutsale-horeg、ウツァ・レホレグ)「処刑される」の意を持つ熟語にも見られます。次に(morish、モリッ)ですが「遺贈者」、「遺言により財産を他人に与える人」を意味します。

また(mashiakh、マシァ)は「油注がれた者」、すなわち「メシア」、「救い主」を意味する言葉です。つまり「兔豆母利麻佐」(ウツァモリッマシァ)は「予言(遺言)の通り自らの命(財産)を捧げ、処刑された救い主」という意味になります。その略称が「ウツァ・マシァ」であり、元来ヘブライ語のこの言葉が日本語の「ウズマサ」となり、「処刑された救い主」を意味します。

即ち「ウズマサ」とは「処刑された神」を指す「大辟大明神」と同じ意味を持つヘブライ語であり、「ローマ帝国」を意味する「太秦」の読みとして、意図的に当てられたことがわかります。

■秦氏とは

秦氏は朝鮮から渡ってきた渡来人である。彼らは秦の始皇帝を祖とする一族であると名乗り、直接の先祖(つまり最初に日本に来た者)は弓月君<ゆづきのきみ>としている。しかし、その先祖の名に大きな意味がある。

百済からの帰化人、秦の始皇帝の子孫、はたまたイスラエルからやってきた異邦人と、そのルーツはさまざまな謎の渡来人秦氏。

『新選姓氏録』に14代仲哀天皇の時代に弓月国から使者(弓月君の父に当たる功満王)が来たとあり、それが秦氏の先祖であるとされているのである。その弓月国こそ、シルクロードを経由してユダヤの末裔が建国した“原始キリスト教の国”なのである。そして彼らが最終的に本拠地とした太秦も【大秦】の文字をはめたのだろうという説がある。

・日本の歴史に大きく貢献した秦氏

大和朝廷が成立したのと同時期に、アジア大陸から朝鮮半島を経て渡来してきた秦氏の歴史は、少なくとも3~4世紀まで遡れます。「新撰氏姓録」には、秦氏の先祖である功満王が渡来したことに関する記載があり、そして「日本書記」によると、応神14年には功満王の息子で融通王とも呼ばれる弓月君が、朝鮮半島を経由して百済から127県の民を率いて帰化し、秦氏の基となりました。

その後、秦氏は雄略天皇の時代(5世紀)に秦部92部から成る18,670人、更に6世紀には少なくとも7,053戸、数万人規模の存在として公に知られるようになり、一大勢力になっていったと考えられています。

養蚕や機織り、酒造も手掛け、楽器や紙といった様々な文化・芸術に関する教養も日本にもたらし、飛鳥文化における中心的な役割を担いました。更に政治・経済においても秦氏の影響力は計り知れず、聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝を筆頭に、秦氏はその絶大なる経済力を背景に多くの寺院を建立しました。そして朝廷に対して強い影響力故に、最終的には平安京を短期間で造営する原動力となったのです。

■秦氏の氏寺「太秦広隆寺」と「いさら井」=イスラエル!?

広隆寺といえば口もとに微笑みを浮かべた表情のアルカイックスマイルでおなじみ、「弥勒菩薩像」のあるお寺です。またの名を「秦公寺(はたのきみでら)」「太秦寺」とも言い、秦氏の氏寺。7世紀始め、秦河勝(はたのかわかつ)は聖徳太子に仕え、聖徳太子から仏像を賜り、そのご本尊として建立しました。

お寺としては京都最古と言われており、霊宝殿には弥勒菩薩以外にも聖徳太子像、秦河勝夫妻の像も安置。秦一族の顔が少しみて取れるので、どこからやってきた人なのか、想像を巡らせるのも楽しいでしょう。

秦始皇帝、弓月王(ゆみづきのきみ)、秦酒公が本殿に祀ってあり、秦の始皇帝の登場です!秦の始皇帝の14世の孫「功満王」は、中国の戦乱を避けて日本にやってきました。そこで始皇帝の加護を願うために立てたのが、この大酒神社です。

そして今度は功満王の子「弓月王」が大勢を率いて帰化し、天皇に宝物を献上。さらに弓月王の孫「秦酒公」が、秦氏一族を率いて養蚕から絹を生み出し、その他多くの技術や文化を広めて日本に貢献。それが先ほどの「太秦」の由来へとつながったり、酒公を称えて大辟から大酒神社へと変わった理由です。

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