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仙台密偵のための奥の細道?実は服部半蔵?俳人松尾芭蕉の正体とは?

奥の細道で有名な俳諧師である松尾芭蕉は、歴史上、多くの伝説と謎を遺しています。そのひとつが忍者説であり、あの有名な服部半蔵ではないかという説です。年齢にそぐわない旅した距離や関所をフリーパスできたことは徳川の重要人物でなければできないといった理由からです。夢ある面白い話ですが実際には?

更新日: 2019年09月09日

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egawomsieteさん

■松尾芭蕉とは

松尾芭蕉は、俳句の元である「俳諧」(はいかい)を、芸術として完成させた江戸時代前期の人物です。名前の「芭蕉」というのは、彼が1680年頃に名乗った俳句を作る人が名乗る「俳号」であり、本名は松尾宗房(むねふさ)と言いました。

芭蕉は正保元年(1644年)、伊賀上野にて生誕。
二男四女の次男でした。

父方は平家末裔の家柄ともされていますが、身分は高くないのであまり関係はなさそうです。
名字帯刀は許されていたようです。

芭蕉は、伊賀国(現在の三重県)の農民として生まれ、10代後半の頃から、当時でも有名だった俳人(はいじん:俳句を作る人)である北村季吟(きたむらきぎん)の下で俳諧の勉強を始めました。

その後、江戸で武士や商人に俳句を教えるかたわら、数々の作品を発表していきます。
中でも「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」という蛙に関する俳句は、芭蕉の俳句の中で最も有名な作品として知られています。

・奥の細道

元禄2年(1689年)、弟子の一人である河合曾良を伴い東北へと旅立ちます。この時詠んだ俳句を集めたのが「奥の細道」です。「奥の細道」は、東北地方の名所を周りその地に入った感動などを詠った俳句を集めた旅日記の体裁を取った句集です

「奥の細道」とは、実際の旅の行程を記した「紀行文」と呼ばれるジャンルの作品になります。主に東北地方から現在の富山県や石川県といった北陸を旅していて、その場所ごとに松尾芭蕉が詠んだ俳句も記されています。

始めの「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかう年も又旅人也(なり)」という文章も有名で、「月日もまた永遠に旅をする旅人のようなものだ」と時間を旅人に例えるところから始まります。

■服部半蔵とは

「服部半蔵」とは忍者ではなく、戦国時代から江戸時代にかけて徳川家康やその縁戚である松平家に仕えた服部家の当主が名乗った名前の事です。この服部半蔵、なんと12代目まで続いているのですが、一般的によく知られているのは2代目にあたる服部半蔵正成という武将です。

この服部半蔵正成は、家康が遠江国に侵攻する時期から武将として彼に仕えたようで、1596年に亡くなるまで家康の勢力拡大を支えました。後述する本能寺の変の後に発生した「神君伊賀越え」を始め、天正壬午の乱や小田原征伐などで活躍している他、家康の長男である松平信康が切腹した際には介錯を担当したものの、主君の命は奪えないとして泣きながらその任務を務められなかったという逸話も残されています。

ただ「服部半蔵」が忍者だった時期もありました。正成の父親で初代服部半蔵にあたる服部保長は伊賀国(現在の三重県伊賀市)の出身の忍者だったようで、一時期は室町幕府の12代将軍にあたる足利義晴に仕えていたようです。

その後、家康の祖父にあたる松平清康が義晴に謁見する際、たまたま保長と知り合う機会があり、意気投合して清康に仕えたという記録が残っています。

神君伊賀越え

服部正成の活躍で特に有名なのは、1582年の本能寺の変の後でした。この時、服部正成は主君の徳川家康やその家臣あわせて35人で堺の町を見物していたのですが、そこで信長が亡くなった事を知ります。

この時、家康一行に対しては明智光秀の手勢が追撃を加えたり、あるいはこの機会に乗じた百姓らによる落ち武者狩りにあう可能性がありました。窮地に陥る家康一行でしたが、そこで活躍したのが服部正成だったのです。

家康一行は、本拠地の三河へ帰国するために、伊賀から伊勢を通り三河へ辿り着くルートを選ぶ事になるのですが、この時正成は、先祖ゆかりの地である伊賀の地元の勢力と交渉を行い、彼らに家康の警護を任せる事に成功。その結果、家康は無事本拠地である三河国へ帰国する事に成功し、正成はこうした伊賀の人々(伊賀同心、同心は「役人」という意味)を統率する役割を拝命する事となりました。

この本能寺の変の後で家康が取った行動を「神君伊賀越え」と呼び、同時に服部正成が活躍したエピソードとして今に伝わっています。実際には、正成以外にも京都の豪商である茶屋四郎次郎や伊勢商人の角屋七郎次郎、信長の家臣で家康一行の案内役を務めた長谷川秀一の存在も、この「伊賀越え」を語る上では外せない所です。

■松尾芭蕉の正体は服部半蔵だった?

徳川家康が関ヶ原の戦いで天下を取った事はご存じだと思います。

なぜ、天下を取る事ができかというと、徳川家康は世界初のスパイ・暗殺部隊を抱えていたからだと言われています。

いつの時代も情報が重要な事は変わらず、スパイがいれば情報は筒抜けですし、 敵将を暗殺して戦を有利に進められます。

この世界初のスパイ・暗殺部隊が服部半蔵が率いた忍者部隊と言われています。


忍者集団の活躍もあって、 徳川家康は関ヶ原の戦いで天下を取り、 長く続く江戸時代を築きました。

戦に勝ち天下を取った徳川家康に
服部半蔵は2つ褒美をもらったそうです。
•名前
•全国を旅する権利

この2つを頂いたそうです。

服部半蔵の半蔵は東京にある半蔵門から名前を頂いたそうです。

歌う事が好きだった服部半蔵は全国を旅する事になります。

その時に使った偽名こそが松尾芭蕉と言われています。

・忍者の血をひている?

松尾芭蕉は俳句のために諸国を旅してまわるような人物でした。出身は伊賀で1644年生まれ。

1644年というのは江戸幕府の統治が始まって間もない、徳川将軍三代目・家光の時代です。

父は土豪の家、母の出身は百地氏であり、忍者として有名な百地丹波の娘だったという話で、芭蕉は忍者の家の血を継いでいるという話があるのです。

芭蕉は若いころは伊賀上野の武家、藤堂家で働いています。19歳の時にこの家に仕え始めて、役職は厨房役(調理人)だったのではないかと伝えられています。

その後、主人の藤堂主計良忠とともに北村季吟という俳諧師に弟子入りして俳諧の道に入ります。

・消息不明な時期がある

藤堂氏の元で仕えていた芭蕉が23歳の時、主君が亡くなり、その後6年間、芭蕉の消息は不明となります。

消息不明の6年間の間も俳諧では活躍していたようで、いくつかの俳諧集に名前が残ってはいます。ですが、どこで何をしていたのか全くわからないのです。

「松尾芭蕉=服部半蔵説」をとなえる人は、この空白の期間に、芭蕉が隠密行動をしていたのではないかと言っているのです。

・旅に必要な費用と体力

松尾芭蕉は俳諧のため、また帰郷のために旅をすることが数度ありました。

41歳から46歳までに5回。これは江戸時代の人としては、かなり多い方だそうです。1日や2日の旅ではありません。一度出発すると半年以上も、ずっと歩き詰めです。

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